孟徳に月見をしようと呼び出され、桂花は池の中洲に作られたあずま屋に案内されてきた。
「ああ、来たね」
孟徳は機嫌よさそうに自分の杯を置くと、桂花が隣に設えられた座に着くのを待って、その手に杯を渡した。
「これ、飲んでごらん」
そのまま手ずから杓にすくった液体を注いだ。
「あの…孟徳殿?」
桂花は酒の匂いや味が苦手だった。飲まないことはわかっているはずと、孟徳を見るけれど、ただ笑み返されただけだった。
戸惑いながらも運んだ杯から、芳香が立ち上っていることに気がついた。さらに杯を近づけて香りを確かめる。
「…桂花の香り…?」
「君の口に合うといいけど」
もともと甘目に仕上がった酒だが、飲みやすいようにとさらに蜜を落としてある。
芳醇な酒に興味をそそられて、桂花は口に含んだ。
花の香りが鼻に抜ける。少し苦味を感じるけれど、まろやかな甘みが口内に広がった。
「おいしい…!」
そのまま杯を一息に煽ると、飲み干した口からほうっとため息がこぼれた。
「気に入った?」
「はい…! 香りが強くて甘くて、こんなの初めてです」
「特別に作らせたものだから、喜んでもらえて嬉しいよ」
孟徳は満足そうに自分の杯を干した。
「作らせた?」
桂花を制してまた自分で杓を取るとそれぞれの杯を満たす。
「うん。以前西国からの使者に果酒の作り方を聞いてね。そこにちょっと桂花を入れてみたんだ。何通りか作り方を指示して出来たうちの一つがこれ。正直これほどうまくいくとは思っていなかった」
自分が美味しいと言って飲んでいるのを眺めている孟徳が嬉しそうで、桂花も幸せな気分になる。
そのまましばらく互いに杯を重ねるうちに、桂花の頬は桜色から赤く染まっていた。
「酔った?」
「………少し」
「少しじゃないよ。結構酔ってる」
孟徳はまぶたの重そうな桂花の手から笑いながら杯を取り上げた。
「…孟徳殿が飲ませるから…」
「でもおいしいでしょう?」
桂花が頷くと、孟徳もまた嬉しそうに笑う。そんな顔をされるから―――笑っていてほしいから、加減もわからず注がれるままについつい口に運んでしまった。でもこのゆったりとした心持ちを思うと、酒を飲みたがる人の気持ちもわかるような気がした。
暑いのか頻りに手で顔を扇いでいる桂花を見て、孟徳は欄干から池の水に手を差し入れた。一振りして水滴を落とすと、濡れた手で火照っている桂花の頬を撫でる。
「冷たい…」
桂花は気持よさそうに目を閉じて頬をその手に擦り寄せた。
涼を取るために作られたあずま屋には、昼間の暑さが嘘のように涼風が流れている。そよぐ風に濡れた頬がひんやりと心地好い。
水面に揺らぐ月影から夜空に目を転じると、大きな丸い月が天空を飾っていた。
「…きれい…」
やわらかな光が地上へ降り注いでいる。静かで穏やかな月明かり。月光に全身を浸していると、やさしさで満たされる気がした。
「明明桂月光
 端静月満亭」
孟徳の言葉の意味をぼんやりと考えて、そして同じようなことを孟徳が思っていることがわかりうれしくなる。でもよくよく考えると、桂月には少し早いと気づいた。
首を傾げて孟徳を伺うと意味ありげに笑われた。
「姮娥酔倒紅如花」
そう言われて桂花はようやく、孟徳が今ここにある情景を詩っていながら、実はそれだけではないことに気がついた。
「わかったみたいだね?」
普段なら顔を赤らめるところだが、今夜は酔いもあり顔色では判別できない。それでもどぎまぎとした表情と仕草でわかってしまうところが桂花の可愛いところだ。
「酔ってるからどうかと思ったんだけど」
「……酔っていません…」
「酔ってる人間はたいていそう言うよね。―――こっち来て。落ちるとずぶ濡れだよ」
子供のように欄干から身を乗り出すように見上げていた桂花を、孟徳は目を細めて引き寄せた。
「また俺に脱がされたい?」
いたずらっぽく笑うと、桂花がふるふると首を振った。
「じゃあ大人しくこうしていて」
そのまま桂花を肩にもたせかけて、孟徳は一人杯を煽る。
少女はすっかり酔いの回った様子で、孟徳にもたれたまま黙って月を見上げている。
「俺の桂花―――」
桂花の大樹があるという月と、自分が名付けた少女を絡めた言葉遊び。
安らいだ月明かりがあずま屋に満ちているように、自分の心の内を桂花という少女が満たしている―――そう孟徳は伝えたのだ。
姮娥―――月に住む天女が酔って赤い花のようになっていると。桂花の様子をそう付け加えて。
「……わたしはこんなにきれいじゃないですよ…」
桂花は天上の月を眺めながら眠そうに呟いた。
姮娥はとても美しい女性だったという。その美しさはさながらこの月のようなものだったのかもしれない。
そんな姮娥と一緒にされるのはどうだろうかとふわふわした感覚の中で思った。
天に昇って行く姮娥もこんな感じだったのだろうか。でも今は孟徳の腕が自分を繋ぎ止めてくれているから大丈夫、などと夢うつつにとりとめないことを思い、桂花は孟徳の手を握った。
「そうかな?」
その手を握り返して、小さくあくびをしている桂花の髪を梳いた。酔って大人しく甘えてくる姿が愛くるしい。
「すっごくかわいいけどな」
よく元譲や文若から女人の美醜の認識についてあれこれ言われるが、桂花については不服を唱えられたことがないから、世間一般的に見ても可愛いのだろう。とはいえ自分が可愛いと思えばそれでいいのだが。
「―――でもそういうことだけじゃないんだよ」
以前から月の光には女人に癒されるのと似た感覚を持つことがあったが、桂花ほどそれを強く意識する相手はいない。
陽の光のような力強さはないが、闇さえも包み込むやさしい光。
手を伸ばして掴みとりたいほどに焦がれてしまう。
「桂ちゃん? 眠っちゃった?」
握る手に力を込めても反応が返ってこない。
「やっぱり飲ませすぎちゃったかな?」
酔わせたらどうなるのかという興味はあった。
陽気になるのか泣き出すのか、それとも怒りっぽくなるのか。
素直に甘えるような状態になるとは考えてもいなかったが、それは心をくすぐられるような甘美さだった。
眠りに落ちた少女を眺めて悪くないと微笑む。
孟徳は桂花を起こさないように姿勢を変えると、腕ではなく胸に寄りかからせた。
その動きに桂花が小さく吐息を漏らす。瞬間、甘い香りが漂った気がした。
生花と違い、香り付けされた酒では遠くまで香らない。なのに桂花の呼気が甘く香るように思うのはなぜなのか。
孟徳は確認するように口許に顔を寄せた。
「俺の前でそんなに無防備になっているのがいけないんだよ?」
小さく笑い、その唇に己のそれを重ねる。舌で柔らかな唇をなぞった。
「……甘いね」
うっすらと開かれている唇に再度口付ける。
甘く感じるのは蜜なのか、それともいとしく思う気持ちからなのか。
「俺がこんなことをしていると知ったら怒るかな? それとも泣くのかな?」
孟徳は桂花の耳飾りを指で揺らした。襄陽で買った物。
その気になれば天子の后さえ霞むような金銀玉で飾ってやることだってできるのに、孟徳にすれば安物の類の飾りを、桂花は特別のもののように大切にしていた。
「ねえ桂ちゃん、いつ俺のものになってくれるの?」
一人の女人をこれほど長く待ったことなどない。
焦れた気持ちが一方にありながら、それでも桂花の気持ちを代弁するような揺れる飾りを見ていると、急かす真似はすまいとも思う。
焦る必要はない。
天にある月は掴めずとも、人の姿をしたこの月はこうして腕の中にある。
姮娥のように天に昇って行かないように、しっかり掴まえていよう。
どこへもやらない。どこにも帰さない。
桂花―――自分だけの輝ける月。

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