碁と戦と(6)

さりとて、距離が遠いというなら近づける努力は必要だ。幼い恋のまま進展がないのではさすがに困る。
さしあたっての問題は、思うままに時間が取れないことに尽きる。距離を縮めたくとも、会うこともままならない現状では話にならない。
「ところでさ、桂ちゃん。認められたいっていうなら…」
もう少しここに馴れてきたらと思っていたのだが、せっかく桂花から発せられた言葉だ。使わない手はない。孟徳は、出会った当初からの希望であり、そして現状を変える術としてもっとも有効な提案を持ちかける。
「丞相府で働いてみない?」
桂花を官吏に―――。
初めて言葉を交わしたあの日、文若と元譲を前に、孟徳は少女を官吏にすると宣言した。必ずうんと言わせると―――今もそう思っている。
「…あ、侍女としてですか?」
きょとんとしていた桂花は、少ししてから思いついたように言った。
「まさか。軍師の君にそんなことさせるわけないでしょう」
確かに宮中や丞相府で働く女官は、女人憧れの人気職でもあるし、そう考えるのが自然というものだが、しかしそれでは桂花の才が泣くというもの。
「文官として。官吏としてだよ」
「わたしがですかっ?」
桂花にとってはやはり衝撃だったようで、その声が上擦った。
「そうだよ。試用だから見習いって形になるけどね」
驚くのも無理はない。
昔から政を行うのは男と決まっていて、いつかの文若の言ではないが、女人が官吏になった前例はない。とはいえ、もとより孟徳には官僚のような前例主義はなく、ないなら作れという人間だ。
「最初から俺のところだといろいろあり過ぎて疲れちゃうかもしれないから、慣れるまでは文若のところにいて、少しずつ俺のところにもついてもらう」
目を丸くしていたままの桂花に、孟徳は構わず続ける。
「あ、文若と仕事するのが心配? あいつ仕事の出来ない奴には手厳しいけど、桂ちゃんのことはちゃんと評価しているから大丈夫だよ。まああの顔だから取っ付きにくいのは確かだし、性格もあのとおりだけど、官吏としては一流だから勉強になると思うし」
「ま、待って…」
「けど、あのしかめっ面と一日顔を突き合わせてたんじゃ、やっぱり滅入っちゃうよね。気分転換したくなったら、いつでも俺のところに来ていいからね」
桂花の言わんとすることを察しながらも、その大きな瞳をこれ以上にないというくらい見開いている桂花が可愛くて、ついつい素知らぬ顔をしてしまう。
「いや、待てよ。それより桂ちゃんがこき使われないように、定時毎に俺のところに来させようか」
「待ってくださいっ!」
独り言のように言うと、たまりかねた桂花が大きく遮った。
「うん、どうしたの?」
ようやく話を聞く態勢を取ると、桂花はよほどびっくりしていたのだろう、ひとつ深呼吸をした。
「……小娘が軍師っていうだけで、十分驚かれるんですよ? それなのに今度は官吏だなんて…」
桂花の今の立場は、孟徳の私設の相談役という意味合いが強く、女であっても比較的受け入れられやすい。正式な官僚組織の中にあるのではなく、孟徳の個人的な人選であり、そして周囲の誰もがその嗜癖を理解しているからだ。
対して、丞相府内で文官として働くということになれば、漢という国の官僚機構の一員になるということ。
府内の人事は、丞相である孟徳の専権事項であることに変わりはないが、孟徳個人に仕える軍師とでは、周囲の受け止め方も自ずと変わってくる。
「でも俺が出るような戦は、しばらく考えていなくてね。軍師としてっていうのはまだちょっと難しいだろうから、だったら文官としてっていうのもいいんじゃないかと思ってさ」
「そんな簡単に…。孟徳殿がなんて言われるか…」
「色好みの丞相が、今度は執務室にまで女を引っ張り込んだ―――そんなところかな」
容易に想像がついてしまい孟徳が笑うと、桂花が目を怒らせた。
「笑い事じゃありませんっ」
「言いたい奴には言わせておけばいいよ。陰で言うしかない人間は所詮その程度だから」
「私がいやなんです…!」
桂花が苛立ったように立ち上がる。
「いやって…」
憤懣やるかたないといった様子で、行きつ戻りつし始める。
怒っている桂花を目にするのは初めてだが、微笑ましくて笑みがこぼれる。他人のことで怒れるのは優しいからだ。しかもその怒りの元が、孟徳の不評を気にかけてのことなのだから、思いがけず嬉しくなってしまうのは仕方がない。
「どうしてそんな風に笑っていられるんですかっ。孟徳殿のことですよっ」
「俺はもともとそんなに評判のいい男じゃないからね」
笑みの意味を誤解して不満を募らせる桂花に、孟徳は煽るように言葉を継いだ。
「孟徳殿っ…!」
「だからさ、桂ちゃんが自分で証明すればいい。能力があるからここにいるんだって」
「…―――孟徳殿…」
桂花の足がぴたりと止まり、疑わしげな目がこちらを振り返る。
猪突猛進型が相手ならここで、うん、と言わせるのもそう難しくはないのだが…。
「…ひょっとして、私を怒らせた勢いで承諾させようと思ってました?」
「桂ちゃんがそんな単純だったら良いなーとは思った」
孟徳は悪びれることなく言う。
手段として煽ってはみたが、桂花がその程度で引っかからないことも想定済みだ。
「もう…」
「おだてて、なだめすかせて、それで桂ちゃんが承知してくれるなら、いくらでもするんだけど…。やっぱりそういうのは無理そうだよねぇ」
多少の野心でもある男なら二つ返事の提案だが、やはり桂花ではそうもいかない。が、諦めるという選択肢も孟徳には最初からありはしない。
「だったら―――方法を変えようか」
「あ…の、孟徳殿…?」
勿体ぶった口ぶりに何事かを感じてか、桂花はどこか及び腰だ。
「さっきの賭け、負けたら俺の言うことを聞くってことだったよね」

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