碁と戦と(3)

孟徳は文字通り手中に収めた碁石を手の内で転がしながら、少考中の桂花の次の手を待っていた。
終盤に近づくにつれ、桂花の思考する時間が少しずつ伸びてくる。
思わぬ桂花の攻めに、内心ひやりとさせられたことも一度ならずだったが、それでも盤中央で勝負を仕掛けどうにか主導権を握り返し得たのは、ひとえに経験を積んだ者としての実力差だ。
旗色の悪くなる桂花に長考を許し、孟徳自身は少女の表情をそれとなく眺めている。無表情を装っているつもりなのかもしれないが、もともと表情豊かな桂花のこと、あれこれと手を模索している胸中が垣間見える。
視線が盤上を行きつ戻りつし、声なき唇が小さく動く。
ふっくらとした赤い唇―――触れたらどんなだろうと、やわらかな感触と温かさを思い描いただけで体の奥が疼くような心持ちになる。
こらこらと、孟徳は苦笑交じりに心中で自身を戒める。
ようやく庇護者から、恋の相手として意識されるところまで来たのだ。
多少の刺激は必要だし、男として認識されないのは困るが、かといって恋にも戸惑ううぶな桂花に余計な警戒心を抱かせるのは得策ではない。
今はこれひとつで我慢しようと、孟徳は手の中に包み込んだ碁石に指を絡めた。
―――それにしても桂花に碁の手ほどきをしていたのは誰なのか。
疑問は囲碁だけにとどまらない。どんな育てられ方をすれば桂花のような女の子になるのだろう。
裕福な家の出だというのは間違いないが、それでも桂花の知性や教養は、たしなみという域を外れている。兵法という、おおよそ女性が持つのには似つかわしくない知識を身につけているのは、一体どうしたことなのか。
もっともその一風変わった教育のおかげで、得難い女性を身近における機会に恵まれたのだから、感謝こそすれ文句など有りはしないが、その生い立ちには興味が尽きない。
「―――…殿?」
呼びかけられてふっと意識が戻った。思いの外考え事に集中していたらしい。
「孟徳殿の番ですよ」
「あ、うん。…さて桂ちゃんはどこに打ったのかなぁ?」
「……教えてあげません」
顔を横に向けていたずらするように言う桂花に、孟徳は笑う。
「いいよ。探してみせるから」
碁石の位置のほとんどは頭に入っている。少し眺めれば差異は容易に見つけられるはずだ。
気になるのか、桂花が頻りに視線をこちらへ向けてくる中、盤上に目を走らせていると、ある石が目に止まった。さっきまでなかったはずの石、だがこれは―――。
「…桂ちゃん、これ…」
睫毛の下からこちらを伺うように見ていた瞳が、目が合った途端あらぬ方向を向く。その様子から、わかってての打ち手ということか、と孟徳は苦笑した。
「悪い子だなぁ。こういうのは相手を見ないと痛い目を見るよ」
「…ごめんなさい」
桂花は可愛らしく肩を竦めた。
「せっかくここまで粘ってきたのに、もったいない」
「孟徳殿が上の空みたいだったから…ひょっとしたらうまくいくんじゃないかって、つい欲が出ました」
桂花の手はいわゆる悪手。打ち手の読み通りに運べば局面を変えるほど有利になる好手だが、咎め立てする手があり、そこを読み取られてしまえばあっという間に負けを決める悪手となる。そうと知らずに打ったというなら、諭したあとに打ち直させても良かったが、確信犯だというなら仕方がない。
「それじゃあ俺も容赦はしないよ」
孟徳は桂花の手を阻むように碁石を置いた。
桂花はあれこれと考えていたようではあるが、もう先は見えている。
「負けました」
地目を数えるまでもない結果になり、桂花は潔く頭を下げた。
「お疲れ様」
「ありがとうございました」
直後、申し合わせたようにふたり揃って体を伸ばした。同じ姿勢に顔を見合わせて笑い合う。
もう随分と長い時間、向かい合っていた。
「遅い時間になっちゃったね。お腹空いてない?」
「わたしは大丈夫です。孟徳殿は?」
「俺も大丈夫。でも喉が渇いたかな」
孟徳は侍女を呼んで白湯を持ってくるよう命じる。さすがに茶を用意するような時間でもない。
「でもまさか桂ちゃんがあんな手を使ってくるなんて思わなかった」
孟徳の率直な感想だった。
打ち始めの堅実さを桂花らしいと思っていただけに、最後の一か八かというような打ち方は意外だった。
「勝とうと思えばいろいろ考えます。…ちょっと乱暴だったとは思いますけれど…」
自覚はしているようだ。
だがその考え方は見方を変えれば、ひとつの形に縛られない柔軟性に富んだ思考の現れとも言える。実際の戦では運頼みというのはいただけないが、硬直した思考では局面打開の思い切った攻めも期待できない。それよりは大胆に斬り込もうという発想自体は好ましい。
しかもこの場合は―――。
「手そのものは悪くなかったよ。もう少し早く使ってたら違ってたかもね」
「え?」
桂花が興味を示したので、孟徳は片付けを始めていたその隣に腰掛けた。
「たとえば…」
崩れかけた石を整理して形を作る。
「これが桂ちゃんの作った手だよね。こっちの黒が生きているうちなら、まだこれを生かす手がある。わかる?」
孟徳から出された問いに、桂花は改めて盤上に目を向ける。
真剣な表情の傍らで、孟徳は不謹慎にもその横顔に見入っていた。
どちらかというと美しいというより可愛いに類する桂花だが、表情に力強さが加わると凛とした風情になる。それがまた孟徳の心を惹きつける。
「あっ」
突然、桂花が声を上げた。
「ここですね!」
「そうそう。そうすると、相手はここへ打つか、君に譲るしかない」
「じゃあ次はここに」
孟徳が打つと、すかさず桂花が続いた。
「大正解。ね、これなら白の壁を崩すことが可能になる。さっきはここが死んでたから逆に息の根を止められちゃったけど…要は使いどころだね」
桂花は盤を見つめたまま小さく何度も頷いている。
「桂ちゃんは対局を積めばもっと強くなれるよ」
「本当ですか?」
「うん。目の付け所は悪くないし、理解も早い。俺が相手をしてあげるから、この部屋にも一揃い置いておこうか」
「はいっ」
単純に碁を打つことが楽しいのか、それとも自分と打つことがうれしいのか、どうせなら後者であって欲しいと願うが、それはともかく、桂花が大きな瞳をきらきらさせているのを見るだけでも孟徳は得をした気分になる。
「…あ、でも次はもっと慎重に考えて打ちますね」
「慎重にかつ大胆に、かな。一発逆転的な発想は嫌いじゃないよ。俺もそうだしね。―――まあその辺は囲碁に限ったことじゃないけど」
「…ひょっとして戦の話ですか? 孟徳殿は機動的な戦術が得意だと聞きました」
「昔はわずかな手勢しかなかったから、必然的にそういう戦い方が多かったっていうのもあるかな。性にあってるのも確かだけどね」
戦いを有利に進める上で戦力差の大小は重要な要素に違いない。だがそれだけで勝ち負けが決まるものでもない。
むしろ戦略や戦術が物を言い、孟徳自身、少数の精鋭部隊を使った夜襲や急襲、弱点を衝いた攻撃から一気に畳み掛ける、そんな戦をいくつも仕掛け戦い抜いてきた。
…無論、勝ち戦ばかりだったわけではない。自身の甘さから死にかけたことすらあった―――。
過去の記憶に、左腕が焼けつくような錯覚を覚えたが、孟徳は嫌悪感を一瞬にして振り払う。
言い尽くせぬ思いをしながらも戦い続けてきた。結果、中原を制した戦は、圧倒的に不利だった戦力差を覆してのこと。
そうだったはずなのに―――。
「兵力は多いに越したことはないけど…」
いい機会だと、孟徳は桂花に問うことにした。
「ねえ、桂ちゃん。俺の軍師として答えてくれる?」

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