碁と戦と(5)

距離を近づけようとしたその矢先―――。
桂花の茫とした瞳は瞬時に夢から覚めた。
孟徳を凝視し、二、三度大きく瞬いたかと思うと、孟徳が何か言う間もなかった。少女は逃げるように戸口に向かっていた。
水を差したのは、まるで見計らったかのような侍女の呼びかけ。
白湯など命じなければよかったと思ったが後の祭りだった。
「…どうぞ」
「うん、ありがとう」
先刻の雰囲気に何かを感じていたのか、盆を手に戻ってきた桂花はどことなく落ち着かない。白湯の入った器を孟徳に手渡すと、心なしか先程より離れた位置に腰を下ろした。
その様子に、孟徳は自身の早計さを苦く思う。
好きだから触れたくなる。そしてそれでは足りなくて、もっと、と望んでしまう。けれど男を知らない桂花の目には、性急過ぎた行動に映ったのかもしれない。
外はすでに夜の帳が下り、ここは桂花の寝室でもある。中途半端な行為が、却って本能的な怯えを生じさせてしまったのではないかと、思わず不安になった。
いつからこんなに堪え性がなくなったのか。自分でも呆れてしまうが、自制しようとしても、桂花の何気ない仕草や言葉、表情ひとつで、簡単にその抑制が緩む。
けれどこれ以上は危険だと、孟徳は苦笑と欲望を、白湯とともに自身の内に飲み干した。
「桂ちゃん」
「は、はい…」
少女の戸惑った気配が伝わってくる。
孟徳は桂花の困惑に気づかない振りをし、そして先程までの気配など微塵も感じさせずに言葉を紡ぐ。
「ここの侍女たちが困っていたよ」
何気ないが、桂花の関心を引くには十分な一言。
案の定、桂花は自分が何かしてしまったとでも思ったか、それとも他人が困っていると聞いて心に留める優しさ故か―――おそらくはその両方なのだろうが、つい今しがたまであった警戒心のようなものが消え、案じるような目を向けてくる。
本当に桂花は素直で、思う通りの反応を示してくれる。
「君がなんでもひとりでしてしまうって」
「え、だって…それは…」
わずかな動揺を示して身構えていた桂花は、拍子抜けしたような顔でこちらを見る。
実の所、そこは孟徳も不思議に思うことのひとつだった。
高度な教育を受けられるほど裕福なら、使用人がいなかったとは考えられない。なのに桂花は身の回りの細々したことを、侍女任せにせずひとりで済ませてしまう。そのため部屋付きの侍女たちは手持ち無沙汰になるわけだが、孟徳は桂花の好きにさせるようにと言い渡していた。
「うん、何?」
慣れたように自然と行えるその理由は、記憶のない桂花ではわかりようがない。今はとりあえず、そうした行動を取る理由が知りたい。
「なんだか申し訳なくって…」
「申し訳ない?」
思いもつかぬ答えに、孟徳も思わず聞き直していた。
「…その…わたしはここに来てから何もしてなくて…。だから自分のことくらいは自分でしないと…」
「やっぱり退屈してたかな? ごめんね、俺が時間取れなくて…」
退屈しのぎだとしたら悪いことをした。
「そうじゃないんですっ、孟徳殿のせいじゃありませんっ。違いますっ」
「じゃあ遠慮してる? 朝、散歩をするくらいで、あんまり部屋から出ないって聞いてるけど」
その報告を気にかけながらも、孟徳自身戻ってきたばかりで何かと忙しく、時間の取れない日々を過ごしてしまった。今日、久々に顔を合わせた桂花は元気そうで安心していたのだが…。
「もう捕虜じゃないんだし、自由にしていていいんだよ」
「そうなんですけど…。その、働きもしないで人に何かをやってもらうなんて、分不相応っていうか…」
孟徳は吹き出した。
「分不相応? 君は俺の、丞相の軍師だよ」
それだけじゃない。いずれは自分の元へ納(い)れたいとも思っている。
「分不相応なんてことはそうそうないと思うけどな」
「でも…孟徳殿が偉いから、わたしも偉いというのは違います。わたしは人に認められるようなことは特にしてないですから」
桂花の返答に、孟徳はしばし目を見張って沈黙した。
「…本当に、君ってば…」
怪訝そうに小首を傾げる桂花に、複雑な思いで孟徳は笑む。
もともと桂花は才覚をひけらかすような気質ではないから、たとえ軍師として表立った評価を得たとしても、こうした謙虚さは変わらないだろう。
軍師として自覚ある言葉だと思えば悪くないが、女人としては…どうなのか。
世の中の、特に都の女性がどんな風に自分を見ているかを、孟徳は十分理解している。
ひとりの女性として丞相に望まれるということは、世間一般にはそれだけで名誉であり矜持につながるもの―――孟徳もそう思っていたのだが、桂花はそうしたことに価値を見ていないのかもしれない。
桂花らしいといえば桂花らしい―――のだが…。
「あの…、何かおかしなことを言いましたか?」
男として多少なりの落胆を覚えたことに気付いて、孟徳は苦笑した。
他と違う少女を愛おしく思ってきたのだから、そこだけ世間並みの反応を期待すること自体が間違っている。
「ううん、正論だよ」
丞相という地位の恩恵にあずかろうとへつらう輩も少なくないというのに、丞相の想い人として、普通なら誰もが甘受する待遇にさえも深慮を示す。
孟徳自身、今の地位にあることの自負もあれど、桂花の思慮深さは、逆に丞相という肩書きなどなくても愛してくれるだろうと思わせてくれる。
「君ってやっぱりすごいよ」
「そうですか? …変わっているとはよく言われますけど」
頻りに首を傾げる桂花に、孟徳は声を上げて笑う。
「うん、変わってもいる。でも俺はそこがいい」
一層の愛おしさを感じながらも、孟徳は互いの「好き」という気持ちにある距離感の違いを、今夜改めて意識することになった。
男と女の違いもあるが、桂花にとって恋は始まったばかりで、今はまだ近くにいるだけで満足できる―――幼い恋なのだ。軍師として、女人として、孟徳の傍らにあることを、桂花自身が相応しいと認めるまでには今しばらくの時間を必要とするのかもしれない。
「まだまだ先は遠いかな」
それでも孟徳の笑みは消えない。桂花となら、その時間さえも楽しめる。

※甘受:現在では「甘んじて受け入れる」という使い方をしますが、本 来は「快く受け入れる」の意。ここでは本来の意味で用いています。

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