碁と戦と(2)

癖なのだろう。桂花は考え込むときに指を口許に持っていく仕草をたびたび見せる。
今も碁石を摘んだ指先が口許にあり、桂花の唇に石が触れている。
白い顔(かんばせ)に咲いた赤い花のような唇―――見ているうちに孟徳は、その石が無性に欲しくなってきた。
それはまるで恋い慕う人の唇に触れたいと願いながらも、果たせぬ思いの代わりに、その唇に触れた物を秘して求める少年のような心持ち。
いい歳をしてと、思わず笑いが込み上げてきた。
思春期にありがちな異性にのぼせあがった感情―――正直そうした一途さとは無縁な少年時代を過ごした孟徳にとって、呆れるやらおかしいやらだ。
欲しいのなら直接触れればいい。手を取り引き寄せて、腕の中に閉じ込めて…簡単だ。桂花は突然のことに戸惑い、怒ったり泣いたりするかもしれないが、いやがられない確信もある。
けれど孟徳は性急な行動を取るつもりはなかった。
戦の前までは、許都への同行を拒むようであれば、多少強引にでも自分のものにして連れ帰るくらいの心積もりだったが、今は桂花の心の歩みに合わせてゆっくりと絆を育んで行こうとさえ思っていた。
焦れったさはあるが、それもまた二人の関係が変化する過程の中の一つの感情だ。
桂花といると他の女性には感じたことのない様々な感情を覚えて新鮮で楽しい。嫉妬のように苛立つのはおもしろくないが、反面、その感情を桂花自身から慰撫されることはやはり心地好かった。
「…どうかしましたか?」
孟徳の忍び笑いに気付いた桂花は、盤上に石を置いてから顔を上げた。
「君といると楽しくて仕方ないよ」
石の位置を確認する。
「こんな自分がいたのかって、自分でも驚く」
「こんな自分?」
一手で囲えるが、桂花はこれを捨て石にしている。このまま取れば、取った以上の数を桂花に与えることになり、どうしたものかと思案する。遊びとはいえ勝負事である以上、やはり勝ちにもこだわりたい。
ならばと、孟徳は隣接している黒の模様に目をつけた。
「考えとか思いとか…。君と一緒だと今までとは違う反応になる」
割って入ると、広げられるのを嫌がった桂花が反応して手を打ってくる。
「君が俺を変えたのかな?」
孟徳の言葉に小首を傾げていた桂花だが、それを聞いて今度は大きく振った。
「あり得ませんっ」
「あれ? どうして?」
「どうしてって…。わたしはただの女ですから」
だから影響力などあるわけがない。そう言うが―――。
「きっとそれは孟徳殿の中にもともとあったのだと思います」
思いっきり否定したあと、自信無げに呟いた。
「…なんのことかわかりませんけど…」
そんな様子がかわいくもおかしくもあり、孟徳は笑う。
孟徳にとって、桂花は決して、自身が言うような「ただの女」ではない。愛らしく才もある、特別な存在だった。
今もこうして桂花の唇が触れたというだけの理由で、碁石一つを欲しがって打っているくらいなのだから。
話しながら、一手、二手と、互いに数手打ち合ったところで、孟徳は先ほどの黒石をおもむろに囲った。石を取りつつ向かい合った表情を窺うと、桂花は難しい顔をしていた。この先の展開が読めるのだろう。やはり筋がいい。
取られるのは仕方ないにしても、ただでというわけにはいかないと、孟徳はそのために一手で済むところを手数をかけたのだ。桂花がこのまま白石を囲んでも、数手後には二つの地のどちらかを失うことになる。痛み分けだ。
「ねえ桂ちゃん、この石持っててもいいかな?」
渋面の桂花に、孟徳は取り上げた石を碁笥の蓋の上に置かず、手の平の上で転がしてみせた。
「…いいですけれど。でもどうしてですか?」
「内緒―――と言いたいところだけど、桂ちゃんが勝ったら教えるっていうのはどう?」
孟徳が挑戦的に言うと、もの問いたげな表情が動いた。
「孟徳殿が勝ったら?」
「そうだな…。俺の言うことひとつだけ桂ちゃんに聞いてもらおうかな」
用心するような視線にぶつかる。それがまた楽しい。
「出来ないこと、いやがることは言わない。約束する」
「じゃあ…約束ですよ」
言葉と共に強い意気込みがその面に加わった。
賭け事など嫌うかと思えば予想に反し勝負を受けて立った桂花は、それまでの守りを主眼においた型から一転して積極的に攻めてくるようになった。
打ち合いの合間に見せる勝ち気な瞳。見慣れない瞳の色で見つめられると、意外性もあって心がくすぐられる。
世の中に美しい女性は数多いても、桂花のように表情豊かに接してくれる女性はそうはいない。
周りを見ても、身近にいる女性はおとなしく感情を抑制する者が多い。その性質を一言で表すなら―――従順。良家の子女ならそうあるように躾けられるのが普通で、特段変わったことではないし、丞相という自身の立場を考えても当然のことではあったが―――けれど桂花の素直な感情に触れていると、それはどこか味気なく潤いに欠けたもののように感じられてしまう。
桂花の飾らない素の感情―――孟徳は出会った頃から一貫して求め、許してきた。
女性には珍しい、自分と同じ物を見て思考することのできる少女。従順さを強いて、物言える良さを失わせてしまいたくなかった。
こうして生き生きとした表情に接し、愛おしさを覚えるたびに、その判断に誤りはなかったと孟徳は思う。

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