碁と戦と(4)

桂花は居住まいを正して向き直った。
「はい、何でしょう?」
「烏林で負けた原因は何だと思う?」
とたんに桂花は眉をひそめた。
その表情に、孟徳は桂花が自分と同じ答えを持っていることを確信する。
「疫病の蔓延による兵力の低下。それが烏林から撤退を決めたきっかけだったけど、根本は何だと考える?」
敗因を疫病のせいにするのは簡単だ。だがそれでは何も見えていないのと同じこと。
「……孟徳殿は答えをご存知です。わたしが何か言うことはないように思いますけれど…」
「そうだけど、俺は桂ちゃんの考えを、桂ちゃんの口から聞きたい」
渋る桂花を、孟徳は逃げられない言葉で、けれど優しく促す。
「君は俺の軍師でしょう? 今後、俺を諌めるのは君の役目だよ」
軍師とは字の通りだ。軍事上の助言だけにとどまらず、ときには「師」として、たとえ相手が主君であろうと、諭し、諌めるべき存在でなければならない。
穏やかに見つめていると、桂花は唇をきゅっと引き締め、少しして口を開いた。
「…―――油断…です」
「優しい言葉を使うね。もっとはっきり言っていいのに」
孟徳は目を細めて笑う。
けれど次には、自身を戒めるように言い切った。
「―――慢心だよ」
「孟徳殿…」
「やっぱり軍師の言うことはきちんと聴いておくべきだね。あのとき君は反対した」
桂花の言葉も覚えている。
「地の利は向こうにあり、水軍がどれほど機能するのか未知数だと。それよりも仁政に努めて、人心の収攬をはかるべきだって。孫仲謀と事を構えるのは、それからでも遅くはないと言っていた。その間に北方の水軍を十分調練すればいいってね」
「…あのときはまだ軍師ではありませんでしたよ?」
「そうだけど…俺はずっと桂ちゃんを軍師に迎えるつもりだったからね」
桂花の戦嫌いをわかってはいたが、それでもやはりその才を惜しみ欲していた。
そして結果は概ね、桂花が当初危惧したとおりになった。
長江を下るこちらは船足で勝り、川上に位置して戦闘でも有利だったはずが、逆に遡上してきた周公瑾の軍に南岸への接岸を阻まれた。陸口を取れていれば、騎兵で勝る北方の軍で柴桑まで一気に陸路を攻め上がることも可能だっただろうが―――戦力は圧倒的でありながら、練度の揃わぬ水軍はそのまま力量の差となって表れた。緒戦で負け、功を焦った徳珪は、その後陣中に広まった疫病の情報を隠蔽し、あまつさえそのことに気付いた桂花を亡き者にしようとさえした。
「…先の戦、戦わずに勝つ―――孟徳殿はそう考えていたのでは?」
桂花の言葉の続きを、孟徳は目で促した。
「公玉殿が降服され、ほとんど無傷で荊州を手に入れました。軍の威勢は衰えず、さらには荊州水軍が加わったことで軍事力の強化は成った。…圧倒的な兵力差に孫仲謀は降伏する。そういう見通しだったのではないですか?」
「―――実際、間者の話では、仲謀の陣営は文官を中心に降伏すべしという論調だった。ところがそこに玄徳についた諸葛孔明という軍師がやってきて、仲謀に主戦を説いたらしい。血気盛んな仲謀はその気になって玄徳と同盟を組み、降ることを拒んだ」
「孔明…?…」
桂花が首を傾げた。
「知ってる?」
「……以前玄徳様に助けられたとき、その方のところへ出かけていたのだと聞きました。確か伏龍と呼ばれる人物だと…」
桂花が記憶を手繰るような目をするが、けれどそう言ったきり首を振った。
「うん、荊州の山奥に暮らしていたらしいよ。まあ丞相の俺としては、誰であろうと賊臣を放置するわけにはいかない。そこで進軍を決めた」
「…あの巨大な楼船と数えきれない船を見たとき、『覇王の兵』だと思いました」
孫子の書から一語を取った桂花は、苦く、小さく微笑んだ。
「覇王の兵で戦わずに勝つ、可能だと思った?」
「はい…。不安は杞憂に過ぎないんじゃないかって思いました」
「皮肉なもんだよね。それこそが敗因を作ったんだから」
船影が霞むほどに水上を埋め尽くした大船団―――その威容が慢心を生んだ。仲謀の軍はいずれこの大軍勢の前に割れる、そうした過信が戦わずに勝つという意識へつながり、引いては発想の硬直化を招いた。
「疫病がなければあるいは…と思わなくもないが、負けは負けだ」
「…はい」
孟徳が慰めなどを望んでいないことを知っているように、桂花はそうした言葉を口にしない。桂花の傍らが居心地よく感じるのは、そういうところも理由のひとつかもしれない。
「でも二度と同じ過ちは犯さない」
多くの兵を失い、一度は押さえたはずの荊州も分割するという事態を招いた。丞相としては手痛い敗戦だったことは確かだが、終わったことを悔いてばかりでは仕方がない。
幸い、主だった将はひとりとして欠けることなく帰還を果たし、中原は自身のもとで安定している。今回の敗戦は、都から見れば辺境の一地方での出来事に過ぎず、朝廷内での権威も地位もいささかも揺らがない。
自省は必要だが、後ろばかり見ていては先へ進めない。進むことを止めるわけにもいかない。
「桂ちゃんと見解が一致していて良かったよ。さすがは俺が見込んだ軍師だね」
「…孟徳殿にはわたしなんて必要ないみたいです」
桂花は困ったように微笑んだ。
「え? どうして?」
その言葉にどきりとする。
「軍師などいなくても、孟徳殿ひとりでどうにでもなりそうです」
そういうことかとほっと息をつく。
話の流れからすれば、桂花の言うことが「軍師としての自分」だとわかるはずなのに、桂花の口から隔てをおかれるような言葉が出ると、つい過剰に受け止めてしまう。
「集団が小さいうちはそれでも良かったけどね。俺が全部を見れていたのは以前のことだよ。今は適材適所。俺には桂ちゃんが必要だよ」
「……そうでしょうか…?」
孟徳は頷いてから桂花の方へ手を伸ばした。
わかってもらいたい。
「でもそれは軍師だからじゃない」
心持ちゆっくりと、桂花が逃げたりしないように。
「桂ちゃんが、軍師であっても…」
わかってほしい。
「なくても…」
桂花自身が好きだということを。
肩より伸びた髪に触れる。
結い上げて整えている様も素敵だが、どちらかと言えば、くつろいだ様子で髪を下ろしているのを見るほうが好きだった。もちろん触れるのはそれ以上に好きだし、その持ち主について言えば何者にも替えがたいほどに愛しい。
「必要だよ。桂ちゃんにそばに居て欲しいんだ」
囁きとともに、緩やかに毛先に向かって指を滑らせる。
「桂ちゃんの髪、…好きだな」
「…孟徳、殿…」
「柔らかくてさらさらして…ずっと触っていたくなる。―――俺にこうされるの、イヤ?」
「…そんなことは…」
桂花の言葉が途切れる。
少女は魅入られたように、揺れる毛先と、戯れる指を見つめていた。
心地好さそうなとろんとした表情に、せっかくの自制心は緩み、甘い誘惑に駆られてしまう。
このまま口付けてしまおうか…。

web拍手 by FC2

前へ  総目次  次へ