碁と戦と(7)

再びその瞳が大きくなった。
「とりあえず一ヶ月間、出仕すること」
「でも…でも、さっき、孟徳殿は言いました…っ」
「うん、いやなことや出来ないことは言わない、そうだったよね」
丞相として命じるのは簡単だ。けれどそうはしたくない。賭けの話など本気ではなかったが、出仕を促す口実としては都合が良かった。
「桂ちゃんは俺のそばで仕事するのいやなの?」
「そんなことを言ってるんじゃありませんっ」
望みどおりの返答に気をよくしながら、孟徳は桂花の手を取り横に座らせた。
「俺は桂ちゃんが出来ないなんて思ってないよ。最初は何もわからなくて当然だし、仕事はおいおい覚えていけばいい。桂ちゃんには素養があるんだから不安に思うことなんてないよ」
それに、と孟徳は一呼吸置いた。
「桂ちゃんだって、軍師としてというより、官吏として認められる方がいいでしょう?」
戦場で敵に血を流させることを考えるよりは、その方が桂花の心の負担も軽い。
言外の思いを察した桂花は、困惑した中でも小さく笑みを浮かべてみせたが、またすぐにその表情が曇る。
「…でも…わたしなんかのせいで、孟徳殿が悪く思われるのはいやなんです」
「優しいね、桂ちゃんは。でもね、わたしなんかっていうのはよくないよ」
孟徳はたしなめながら、握った手をポンポンと軽く叩いた。
認められたいという心の裏返しなのか、桂花は自身の価値を軽く見る向きがあって困る。
「桂ちゃんはもっと自信を持っていいよ」
軍師は自信過剰なくらいでちょうどいいのに。それとも…口さがない連中に否定的なことでも言われたりしたのだろうか?
どんな社会にも、足の引っ張り合いはある。
自分より下だと思っている女の子が取り立てられ、秀でた才を表すのを快く思わない連中は当然いるだろう。だが大抵においてそういう手合いは、己の才覚に乏しく、他人のアラ探しばかりをしたがる器の小さい人間だ。そんな小物の言葉を、桂花が気に病む必要などないというのに―――。
戦を嫌いながらも、認められたいと思うのは、ひょっとしたらそうした者たちへの反感もあるのかもしれない。
「俺はね、能力のある者に仕事をさせたいんだ。そして世の中には、優秀な人間がまだまだ埋もれている」
大業を成すことはひとりではできないと、孟徳は優秀な人材を求め続けてきた。
土地の有力者に目をかけられてこそ、中央官僚への道も開かれる。そんな旧態依然としたやり方に依っていては、得られる人材は限られてしまう。
「桂ちゃんのようにね」
「女でも…?」
「そうだよ。女の子でも能力があれば登用したい」
能力があるなら、性格や家柄、性別さえも、問題にはしない。
そうした従来の規範にとらわれない考え方を批判するものもあるが、この乱世で既存の枠が何ほどの意味を持つだろう。太平な世であるなら、能力が多少劣っていても人品卑しからぬ者を役に就け国を治める助けにしていくのもいい。けれど問題山積の騒乱の世にあっては、能力がない者が上にいては民にとっては迷惑なだけだ。
「家柄が良かったり、人徳が認められてても、そうした人間に必ずしも才能があるわけじゃない。逆に素行が悪くても能力のある奴もいる」
賄賂を得ようと、他人の妻を寝取ろうと、たとえかつて敵対した者であろうと、卓抜した才があるならそれでいい。
女だからというだけで、能力を認めず用いないというのは、それ以上に筋が通らない。
「そうだね…、桂ちゃんや文若のように品行方正で優秀っていうのが理想なんだろうけど、清廉さと能力が揃うっていうのは多くはないんだよ」
道徳的な価値観と能力が必ずしも一致しないのは、自分自身が一番良くわかっている。
「そして今は桂ちゃんみたいに、自分の頭で考えて動ける、そういう人間が必要な世の中なんだ」
「…今度はおだてるんですか?」
落ち着きを取り戻した桂花は、困ったような、微苦笑を見せる。
「桂ちゃんにはそういうのは通用しないでしょう? だから賭けを持ち出したんだよ」
「でも…碁は遊びですよ。大切な官吏の仕事を、賭けの見返りにするなんて」
もう何度目の「でも」だろう。けれどさっきまでの不安いっぱいという表情ではない。
「遊びだったかもしれないけれど、勝負事に変わりはないからね。大将と軍師の勝負事ならそれぐらいだっていいでしょう?」
勝敗が決するまで何を求められるかわからない、ある意味、桂花にとっては不公平感のある賭けだったかもしれないが、そこには敢えて目をつぶる。
「敗者は勝者のもの。それが戦の道理だよ。おとなしく従って」
少女は不満そうな顔をするが、反論するまでの気持ちはないようだ。
「桂ちゃんは、俺の考え方をどう思うの?」
「……とても、斬新だと思います…」
孟徳の問いに、桂花は考えながらゆっくりと言葉を繋ぐ。
「合理的で…。…出来ない人がやるより、出来る人がやるのがずっと早くて確かだし…。いいとか悪いとかは、簡単には言えないのかもしれませんけれど…。でも…多くの人が孟徳殿の下に集まっている。今はそれがひとつの答えなのだと思います。―――従来のやり方を良しとする人たちは、付いて行くのが大変でしょうけれど」
「頭の硬い連中にはやってみせてわからせないとね。で、君はどっち?」
「え?」
才覚を持ちながらも女であるというだけで、その能力を発揮する場さえ与えられない。けれどそれは今までの社会常識にすぎず、そして孟徳の意識は固定概念に縛られるものではない。
「新しいものを求めるか、古いものに固執するか」
「あ…」
自分を見つめる桂花の瞳の中には、さっきからずっと、不安とは別の色が見え隠れしている。
「女だからという理由で諦めることはないよ。俺なら、桂ちゃんに相応しい居場所を与えてあげられる」
誰にできなくても、自分になら可能なのだ。
権力を持つ意味がそこにある。目指す国の形、施策の数々―――新しいことを始めようとすれば、反対するものが必ず出てくる。そういうものを排除し物事を押し進めるには、自らが権力を握るのが手っ取り早い。
「政(まつりごと)に興味ない?」
「…ない、…こともない、です…」
「素直に言うと?」
「……………あります」
遠慮がちな桂花から本音を引き出して、孟徳は笑いかける。
「だったら、この機会をみすみす逃すのは愚かだよ」
今はまだ、誰もが平等に与えられる機会ではない。
「桂ちゃんが期待に応えてくれたら、次に続くものも出てくるし、俺も見る目があるって言われる」
もっとも官吏に推せるほどの能力を持つまでに女性が教育されるなど、滅多にあるものではないから、桂花は例外中の例外だ。
「逆もありますけれど…?」
「そんな心配はしてないよ。桂ちゃんが優秀なのは俺が知っているから」
何か言いたそうに口を開きかけた桂花を制して、孟徳は最後のひと押しをする。
「やってみてどうしても馴染めないっていうなら、そのときはまた考える。それならいいでしょう、ね?」
握っていた手を放して、孟徳は改めて手を差し伸べた。
その手を、桂花はまじろぎもせず見つめる。今この手を取るということは、承諾の意を示すに等しい。
「…ずるいですね、孟徳殿は」
「うん、て言わせたいからね」
意図を正確に読み取った桂花は非難めいた言葉を口にするが、内心の好奇心には勝てないようで、差し出した左手に本気で怒る様子はない。
戸惑いを見せつつも、そろそろと手を近づけてくる。けれどその手は、孟徳の視界から火傷の痕を遮るように、その掌の上で止まった。
「…でも…、…本当にいいんですか…?」
「『でも』は、もうなし」
ためらいに揺れた指先を、孟徳はそっと掴んだ。抵抗することなく、再び白い手が孟徳の掌に収まる。
「唯才あらば是れを挙げよ。吾得て之を用いん」
孟徳は脳裏に浮かんだ言葉を口にした。
「―――布告を出して、俺は広く、国中から人を求めるよ」
「…ただ才があれば、ですか……。…きっと孟徳殿だけでしょうね。そんな風に考えて実行できるのは」
「変わってる?」
桂花は小さく笑って首を振る。
「強いんですね、孟徳殿は。反発も…批判も、物ともしない」
「そんなことは今更だしね。俺は、俺の信じるやり方を通すだけだよ」
孟徳がきっぱり言うと、絡めた細い指先にきゅっと力が入った。
「やっぱり…すごいです」
向けられる瞳に見える憧憬の念―――。
「そんな風に言われると、もっとがんばっちゃおうって気になるから不思議だよね」
桂花から寄せられる期待や羨望に対して、応えたいという強い思いが湧き上がる。それは国のため成すべきこと、必要とされることをこなしてきた中で、ついぞ感じたことのない高揚感だった。
「奇遇ですね。わたしも今そんな気持ちです」
「え? じゃあ…ひょっとして、いいの?」
「はい」
今度はあっけないくらいにかんたんに頷いて、桂花はふんわりと微笑んだ。
「がんばってみます。孟徳殿のために」
「…うん」
いともたやすく桂花は心をくすぐる。
偽りのない言葉、やわらかな笑顔が、快くて愛しくて―――。
「ありがとう。うれしいよ」
孟徳は抱きしめたくなる思いを抑えて、代わりに、桂花の手をほんの少しだけ強く握り返した。


失ったものの多さと、得たものの少なさ。戦の結果だけを見るならば、満足からはほど遠い有様だったというのに―――。
…なのに。

手の中のぬくもり―――自分のそれより一回り以上も小さな、華奢でやわらかな感触―――…。

決して無駄ではなかったと、そう思える。
あの遠征が出会いを引き寄せ、今が在る。…それは丞相という理性だけでは抑えきれない、ひとりの男としての色濃い感情―――…。
悔いはない。…たとえそれが、幾千、幾万の屍と引き換えだったのだとしても―――。

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