碁と戦と(1)

パチン。
―――――パチ。
侍女らが室内の明かりを灯していく中、碁石が盤面を打つ音が響く。
孟徳が桂花を囲碁に誘ったのは、まだ陽が落ちる前。
打ち方は知っているけれど腕のほどはわからないと、記憶がない故の言葉を桂花は頼りなげに口にした。そこで置き碁で対局することにしたが、いざ始めてみると迷いのないその打ち方に、置き石を与えすぎたかと孟徳は早々に苦笑することになった。
桂花は力量差を埋めるための置き石を十二分に生かし、孟徳に先んじて堅実に地を広めていた。序盤に築いた守りを崩さず命取りとなるような下手な手も打ってこない。
置き碁で始めたとはいえ、男でもここまで相手になれる者はそうはいない。女性であるという点を考慮すれば破格の腕前といえる。
戦も囲碁も変わりはない。どちらも自身を生き残らせ、いかに地を広げるかの戦いだ。桂花を向こうに回しての籠城戦はさぞや苦戦させられたことだろう。そう思わせるに足る申し分のない打ち方だった。
「襄陽で篭城しようとか思わなかった? 兵も兵糧も十分残っていた」
「……公玉様が降伏を受け入れられました」
桂花がほんのわずかに目を上げた。
正確にはその周囲の側近等がお膳立てしたことだが、結果は同じことだ。
「だけど荊州を取る手もあったでしょう?」
わかっている答えを、孟徳はあえて訊いてみる。
「…玄徳様が反対されましたから」
思った通りの答え。大甘な玄徳の考えそうなことは読めてしまう。
「景升に世話になったとか、信念だとか、おおかたそんなことを言ったんじゃない? せっかく進言しても、それじゃあ甲斐がないよねぇ」
「…玄徳様らしいところです。ただ、わたしに説得できる力がなかった。…それだけです」
かすかに唇を噛む桂花の仕草に、孟徳の心のどこかがざらつく。
その仕草は、自身の力不足に対する悔しさの現れか、あるいは盤面上の局面を読んでのことなのだろうと思ってはみるが、ひょっとしたらあのときにそうしていれば―――という気持ちがあるのではないかと邪推が先に立ってしまう。
桂花の気持ちが自分に向いているのをわかっていながら、それでもなお孟徳はその心の内を確認したがる。
「俺に仕えたこと、後悔してない?」
盤面に滑らせかけていた桂花の指が一瞬止まった。
幾人もの前で認めた言葉を、行きがかりだったとは桂花には言えないだろうと、孟徳自身はそれを良いことに烏林から戻った後も桂花を軍師扱いし続けていた。
桂花もそうした扱いに抗議するでもなく受け入れている風であったが、改めて聞くのは初めてだった。
ゆっくり石を置いてから、桂花は孟徳と目を合わせた。
「…はい」
「これからも俺とあいつは必ずぶつかる」
孟徳も桂花の目を捉えたまま、なおも言う。
「君はどうする?」
「……わたしを軍師として必要とされるのなら、策を立てます。もちろん勝つために」
少しの間と、覚悟を込めた言葉―――自分に仕え、想いを寄せてくれても、玄徳に対する感謝の念がいまだに桂花の中に残っているのは知っている。
それでも少女は戦場に立つ決意を示してくれた。
「聞いただけだよ。大丈夫、桂ちゃんに酷なことをさせるつもりはないから」
だから今はその言葉だけでいいと思った。
桂花の口から語られる偽りのない言葉だけで。
「でも…わたしは孟徳殿のために…」
ざらざらした不快感は、桂花の言葉になだめられてあっさりと氷解する。
複雑そうな桂花の表情に、孟徳は穏やかに笑む。
「君の言葉に嘘はないから。それだけでいいよ」
そう。桂花の言葉に嘘はない。本当にそう思っているのだ。
機嫌よく桂花に続いて石を打ち、今度は一変、からかうような笑みを向ける。
「それにしても、俺のため…っていうのはいいね」
孟徳の反覆に自らの言葉を改めて認識したのか、桂花の頬がうっすらと珊瑚の色に染まる。
「尽くしてくれる?」
「…その、つもりです」
ぎこちない返事にも嘘はなく、頬はますます色を濃くしていく。
「軍師としてだけじゃないよ? 他にもいろいろ」
「いろいろ…?」
「そうだよ。公私に渡って―――特に私生活の部分は重要かな」
桂花の指からこぼれた石が碁笥の中で音を立てた。
「ねえ、桂ちゃん?」
「……他のことは…そのうち、…ゆっくり考えます…」
たどたどしく言ったきり、桂花は両手を膝の脇につくと盤面を覗き込んでしまった。不自然なくらいに前屈みな姿勢。
顔を隠したつもりなのだろうが―――。
「耳、赤いよ」
間髪を入れずその手が両耳を覆った。
「もうっ、言わなくていいですっ」
真っ赤になって文句を言う桂花に、孟徳は声を上げて笑った。
無自覚だった少女はようやく恋を意識し始めたばかりだ。

web拍手 by FC2

総目次  次へ