続・ある昼下がり

結局孟徳が押し切る形で、桂花の肌を拭き始めた。
午後の執務を心配した桂花だったが、会議をひとつ明日に先送りにしたというので、断る理由がなくなってしまった。
恥ずかしかったり傷を見るのがいやだったら目を閉じていてと言われ、その通りにすることにしたのだが、すぐに具合が良くないことに気がついた。
視覚を奪われている分、やたらと孟徳の手を意識してしまうのだ。その息遣いにさえ敏感になる。さりとて目を開けるのは恥ずかしいし、傷を正視するのもまだ怖い。
布越しに伝わる孟徳の指から意識を逸らすには、何事かを話していなければならなかった。
「孟徳殿、わたしはいつ仕事に戻る許可をいただけますか?」
「桂ちゃんて、本当に真面目だね。こんなときくらいゆっくりしていればいいのに。文若のところで真面目の虫が移っちゃったんじゃない?」
孟徳らしからぬ言葉だ。というよりずっと不自然だと桂花は思っていた。
仕事に戻れば半日くらいは孟徳の執務室で過ごすことになるから、そばにいる時間は今よりずっと多くなる。動くのに支障がなくなった時点で出仕を促されないことが逆に不思議だった。
無理をさせたくないという思いがあったのかもしれないが、他に考えられるのは――。
「…九錫を賜るというお話、まだ落ち着かないのですか?」
何も考えず療養に専念すること、最初にそう言われて桂花はずっとそのことを尋ねられなかった。
「聡い子は好きだけど」
苦笑するような声が少し遠くなる。布を水に浸す音が続いて聞こえた。
「それが君だとちょっと困るな」
固く絞った布を広げて、孟徳は桂花の右手を取る。拭きやすいように軽く伸ばして、肩から二の腕へゆっくりと手を動かした。
恥ずかしそうにしているがされるがままになっている少女を眺めながら、孟徳はどう返答するかと思案する。嘘はつかないが、黙っていることはできる。
「文若にも動いてもらってるけど、これから先まだ流動的でね」
が、結局話すことにしたのは桂花の反応を見たいと思ったためだ。
「玄徳が益州に潜り込んだみたいだよ」
「え?」
桂花は思わず孟徳を見返していた。
「益州を手に入れるつもりかもしれないね」
案の定というか、その強い反応に――黒目がちの大きな瞳が揺れるのを見て、孟徳は胸の奥を引っ掻かれたような不快感を味わう。
そんな孟徳に気づかず、桂花はしばし考え込んだ。
「――玄徳殿は反対すると思いますけど…兄はそのつもりでしょう…」
荊州のときもそうだった。玄徳は明日をも知れぬという人から後事を頼まれながらも、継ぐべき者を立て道義の道を選んだ。自分の身が危ういとなっても他人の領土を犯すことを拒んだ人だ。
だが孔明なら策を弄しても必ず益州を取りにいくだろう。
そうなれば、北の曹孟徳、南の孫仲謀とともに三勢力の鼎立がなり、孟徳の軍は勢力図から見ればまだ有利とはいえ、これまでのように戦を仕掛け続けるのが難しくなる。
不安なのはそのことによって孟徳を帝位へ着かせようとする内圧が、さらに高まりはしないだろうかということ。鼎立となったとき、他勢力よりも優位を保ちたいがために、総大将である孟徳をさらなる高みへ押し上げようとする可能性がある。
純粋に孟徳の統治能力を見込んで皇帝にと望む気持ちなら理解できるが、そういう者たちばかりではない。欲から官位を求める輩は、まず他人に官位を勧める場合が往々にしてある。孟徳が位を一段上がれば、下に連なる者は労せず位を上げることができるからだ。
孟徳が流動的と言ったのはおそらくその辺りを警戒しているのだろう。
長い間外戚と宦官によって腐敗を極めた宮廷――帝にはもはや政を行う力はない。今の朝廷は孟徳等がいてようやく形をなしているに過ぎない。
帝位すら望めるところにいながら、それでも孟徳は漢王朝を擁護し忠臣であろうとする方を選んだ。
その思いを無にはしたくない。
孟徳による漢王朝の名のもとでの統一が難しいなら、別の方法を考えなければ――。

戦を終わらせ天下に平和と安定をもたらす――その大望のために。
「ッ!」
不意に右の手首に痛みが走って、現実に引き戻された。小さいが鋭い痛み。
手首に唇を当てながら、孟徳が視線だけをこちらに向けていた。
「ごめんね、痛かった?」
「も、孟徳殿?」
「君を好きになってわかったんだけど、俺ってさ、結構嫉妬深いかも」
噛んだあとを癒すように舌先で舐める。
「君がそんな顔で玄徳のことを考えているのを見ると、どうにかなりそうだよ」
「そんな顔って…」
「心配そうな顔、不安そうな顔」
孟徳の心なしか苛立った面持ちに、桂花は当惑する。
「……孟徳殿のことを考えていました」
「俺のこと?」
「はい」
孟徳は言葉の真偽がわかる。
「…でも玄徳のことも考えた」
違う? と孟徳は追求をやめない。
「それは…」
「まだあいつのこと忘れられない?」
「……わたしが好きなのは孟徳殿ですよ?」
「うん、それはわかってるけどね」
孟徳が過剰に反応してしまうのは、それが自分もよく知る男だからだ。乱世の中で英雄の資格ありと、自らが認めた男。
神経質すぎるくらいに気にするのは、以前桂花がその男のことを「普通に好き」と言ったことだ。桂花としては正直に答えただけなのだが、結果的にそれが孟徳の過度な情動に繋がっていた。
桂花は取られていない方の手を孟徳に伸ばした。
頬に触れる指に、孟徳の表情が柔らかくなる。伸ばした手は握り直されて唇を手の平に押し当てられた。
嘘を語ることはできないから、桂花は慎重に言葉を選ぶ。
「…忘れるのは…たぶん無理です。でも気持ちは、恋しいとか愛しいとか…孟徳殿を想うのとは違います。今は懐かしいような…心苦しいような、そういう感じで…。忘れることができないのは、たぶん…後ろめたいから」
玄徳との間に主従関係があったわけではないが、あれほどよくしてもらい共に戦場にも立った。玄徳から恩義を受けた身でありながら、結局は孟徳に仕えることになり、裏切るような形になった…その罪悪感故に、いつまでも記憶が澱のように苛み、忘れられないのだ。
仕官していたわけではないのだからやましく思うことはない、というのが孟徳の考えだが、桂花の気質を思えば無理からぬことなのだろう。
孟徳は盛大なため息をつくと共に、嫉妬心を意識の向こうに押しやった。
「あーあ、どうしてあいつより先に君に出会えなかったんだろうなぁ」
吐息と、言葉を紡ぐたびに動く唇が、手の平に微妙な刺激を生んでくすぐったい。
親密な仕草に、桂花の心も自然と緩む。
「わたしも時々思います。誰よりも先に会いたかった…って」
言ってしまってから桂花はハッとする。
「ご、ごめんなさいっ。今のは忘れてください!」
「大丈夫、わかってるよ」
狼狽する桂花を、孟徳はなだめるように抱きしめた。
嫉妬をあらわにする孟徳とは逆に、桂花は気づかない振りをし気にしないように務めている。
孟徳に正妻を始め多くの妾がいるのは周知の事実だ。妾を置かない主義の者もいるが、孟徳のような立場の人間であれば妾を何人も囲うことは珍しいことではない。
だがそれはそれとして、夫婦が寄り添い助け合っている庶民の姿を憧れのように眺めている桂花にとって、孟徳を他の女性と分け合っている現実は苦痛だった。
それをわからないほど孟徳は鈍くないし、そのことを理解しているから彼女を丞相府の居室に留め置き、他の女性の影すら見せないように気を遣っている。
とはいえ現在は孟徳が本邸といえる私邸へ戻らなくなって久しく、時間が許す限り通うのは桂花の元だけというのが実情だった。
無論、本宅にいるのは一度は愛した女性たちで、彼女たちに対する情がなくなったわけではない。ただそれが恋情かと問われると素直に肯定しかねるのが今の孟徳の本音だ。
桂花の苦悩と常にそばに置いておきたい気持ち、それらはもちろんのことだが、桂花を本宅へ入れない最たる理由、それは孟徳自身が桂花を無二の存在として認識していることだった。
どれほど愛していようと、家へ入れてしまえば、桂花は他の妾と同列になってしまう。
それが孟徳には受け入れがたい。
彼女らとの関係を清算すれば解決できることだが、情が絡む問題だけに、桂花自身がそれを良しとしないこともわかっている。
桂花に自分と同じような思いをさせているこの現状に満足しているわけではなかったが、孟徳は今しばらく、情勢の流れを見極めるまではこの状態を続けることを決めていた。
「桂ちゃん」
桂花を抱き竦め、首筋に顔を埋める。
「桂ちゃんは、俺にとって特別だから」
孟徳の体には桂花の腕が回される。
「誰とも比べられない大事な人だから――それを忘れないで」
「…はい」
孟徳はその体をより一層きつく抱きしめる。
他人が入る隙がないほど自分だけで満たしたい、そんな強い独占欲に突き動かされる。
「桂ちゃんにとって俺は? 特別?」
「もちろん、です。代わりに…なれる人なんて、いません」
息苦しいのだろう、小さく息をつきながら桂花が答える。
でも孟徳の腕の中で苦しいとは彼女は絶対に言わない。

あなたの方が苦しそうだから。

それは心根のやさしい彼女のいつかの言葉。きっと今もそう思っている。
度し難い執着心、それすら桂花は許し、受け入れてくれる。
「うん、ありがとう」
――その愚かしいほどのやさしさに、自分はいつも救われるのだ。

 

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