ある昼下がり(2)

「寝顔だけでも見ていこうと思って来たんだけど、でも声が聞けてよかった」
「…わたしもです」
「本当? うれしいなぁ」
はにかんだ笑顔を向けると、孟徳が満面の笑みで応えてくれた。
忙しい孟徳とはともすれば言葉を交わせない日もあるから、今日は運がいいのだろう。
「でも本当に食べなくていいんですか? 忙しくても食事は取ったほうがいいですよ」
「そうなんだけど、それよりさ」
孟徳はもっといいことがあるとばかりに続けた。
「さっきの続き、俺がしてあげるよ」
「え?」
「汗かいたんでしょう? 俺が拭いてあげる」
「け、結構ですっ。孟徳殿にそんなことさせられませんっ」
孟徳の提案にぎょっとなって、急いで距離を取る。
「やっぱり何も食べないなんて良くないです。何か果物でも――」
部屋の中央の卓には、果物が毎日絶やされることなく用意されている。ぜいたくに籠に盛られている数種類の果物をあれこれと手に取ってみた。
「桂ちゃん?」
「………」
孟徳に隠すこと自体が無意味なことだと頭では理解している。
怪我を負ったときも、その後の治療でもそばにいてくれたのだから、どんな状態かは孟徳もわかっている。彼自身、戦場に身を置いてきた人で、創傷は珍しくない。
だがたとえそうでも、好きな人に傷痕を見られるのは躊躇してしまう。暗いならまだしも、この明るい部屋ではなおのこと。
孟徳が背後に立つ気配を感じた。
「こっち向いて」
顔を合わせづらくてそのままじっとしていると、肩を両腕に包み込まれた。
「――傷痕が気になるの?」
孟徳を相手にごまかすこともできなくてこくりと頷くと、抱きしめる腕に力がこもった。
「そうだよね、女の子なんだから当然だよね。ごめんね、俺のせいで」
「ち、違います! 孟徳殿のせいじゃありません! そうじゃなくて…っ」
後ろから聞こえる声が憂いを帯びたのに気づいて慌てて否定する。
あのまま死ぬことになっても、悔いはなかった。失いたくないと思い、身体が動いていた。孟徳が無事だったことがなによりも嬉しかった。
それはすべて自分自身の気持ちから行われたことで、孟徳が自分を責めるのは間違っている。
「ただ――…」
「ただ?」
途切れた言葉の続きを孟徳が待っているが、なかなか言葉が出てこない。
「ひょっとして…俺が君の傷痕を見て嫌がると思ってる?」
違うと首を振る。
「うん、じゃあどうして?」
後ろから覗き込まれて、顔を伏せる。
「言って。君に拒まれると不安になる」
ずるい、と思う。
どんなに荒れた戦況でも、厳しい顔こそすれ不安を表す人ではない。その人に、そんな言い方をされたら答えないわけにはいかなくなる。
「ごめんなさい。本当に孟徳殿のせいじゃないんです。その…」
ようやく意を決して、言葉を継ぐ。
「…きれいだって、いってもらっていたのに…そうじゃなくなってしまったなって……」
そう気落ちしているだけ。孟徳のせいではなく自分の気持の問題だと。
孟徳にすればそういうときに言う決まり文句みたいなもので、たいして意味を持たないのかもしれないが、それでも閨での囁きは桂花に自信を与えてくれていた。
好きな人にきれいだと思われたい、言われたい。
それは女の子としては当然の気持ちで、けれどやはりうぬぼれが過ぎてる気がして急にいたたまれなくなる。逃げ出したい気持ちで身を捩ると、とたんに強く抱きしめられた。
「桂ちゃん、君ってば――」
わずかな間のあと、さらに強く抱きしめられた。
「かわいいよ、本当にかわいいっ」
思いもよらない孟徳の嬉々とした声。
かわいいなどと返さえたのが意外で、なんとも言いようのない恥ずかしさが込み上げてきた。
「も、孟徳殿…っ」
「どうして君はそんなにかわいいことを言うんだろ」
「あ、あのっ」
「まったく君ってば…」
逃れるすべもなく気恥かしさに耐えていると、不意に抱きしめている腕の力が緩やかになった。
そして孟徳の声音も変わる。
「桂ちゃん」
手が下って夜着の上から怪我の部分をそっと押さえられた。
「これは俺をかばったときの傷。君が身を挺して俺を守ってくれた証だよ――醜いなんて思うわけがないでしょう」
桂花の落ち着かなくない動悸は、諭すような真摯な声と言葉に不思議なくらいに静まっていた。
「守った証…そんな風に言ってくれるんですね」
つぶやきに応えるように、こめかみに唇が触れる。
「本当にそう思ってるからね。知ってるでしょう? 俺が嘘をつかないこと」
「…はい」
胸の奥が暖かい。
今自分の体にある痕は、大切な人を守った印――確かに見た目は良くないかもしれないけれど、そう考えれば決して嫌悪するものでもない。
この人の言葉はどうしてこうも力強く響くのだろう。
孟徳以外の誰に言われても、自分自身でさえ、気持ちを納得させることができなかったのに…。
今はもう傷痕を見るたびに心に溜まっていった澱が霧散している。
――好きな人、だからだろうか。
ふと、自分はどうだろう、と考える。
この人にとって、自分はそんな存在になれているだろうか。
言葉だけで癒してあげられるような――。


『君の言葉は簡単に俺を救い上げてくれるね』


「あ…」
不意に思い出した言葉に思わず声が漏れた。
そう、なのだろうか? 孟徳にとって自分も同じような存在になれているのだろうか。
「どうかした?」
「え、あ…」
振り仰いで見た孟徳の笑顔は、あまりにもやさしくて胸の奥がくすぐったくなる。
聞いて確かめてみたいとも思ったが、尋ねるのも無粋な気がした。代わりに別の言葉が自然と口をついていた。
「あなたが好きです」
孟徳の虚をつかれた一瞬の表情。
「…まったく、君って…。不意打ちが多すぎるよ」
「そうですか?」
首を傾げると、孟徳が楽しそうに笑い出す。
「そうだよ。でも、うれしい。俺も君が好きだよ」
柔らかく抱いていた腕にまた力がこもり、そして髪にささやかれる。
「――愛してる」
それはどこにでもある言葉で、孟徳が折りにふれ口にする言葉で――でもそれだけであたたかな気持ちになる言葉。
影響を与えることができるというなら…同じように感じてくれるだろうか?
孟徳の笑顔と言葉で心が満ちるようなこの幸せを。
ならば自分も心を込めて大切に言葉を返そう。
「わたしも…愛しています」
多くを背負い孤独なこの人の安らぎであれるように、幸福を感じてもらえるように――…。

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