約束(1)

桂花の部屋に近づくもの有り。
もたらされた知らせに孟徳はわずかにあごを引いた。
密告者を下がらせ、卓上の刀を手に取ると執務室を出る。
警護していた衛兵が後を追おうとしたのを制して、孟徳は一人彼女の部屋へ足を向けた。
桂花は知らぬことだったが、彼女には少し前から孟徳の命を受けた影守がついている。
影守――本来は対象者の護衛を役目とするが、現状は監視役といった方が正しい。侵入者の報を受けた後、狙いが自分ではないと当たりが付くと、孟徳は桂花の周囲への警戒を怠らぬよう細かく手配りしていたのだ。
そうして侵入者の狙いが、彼女がここで得た情報などではなく彼女自身だと知ると、孟徳は彼女を絡め取る算段に出た。
彼女は聡い。囲い込み追い詰めようとしても、それを察してしまう。ならば手の内を見せることもやり方のひとつだ。
方法は単純明快にして効果は大。
軍師として戦に赴きながら、それでも兵の生き死にに心を痛めるやさしい少女には、自身を助けに来たものの命を脅かすことなどできはしない。
逆に、そのやさしさに付けこむことなど、孟徳にとって埒もないことだった。

一度は元譲軍を壊滅状態にまで陥らせ、新野ではまんまと玄徳を逃がすための時間を稼いだ、玄徳軍の軍師。
たとえ敵軍の者であっても、才能ある者を正当に評価することを惜しまない孟徳が、その人物に興味を持つことは自然であったが、その才持つ者が少女だったということが、処遇を決定付けた。
漢の丞相、曹孟徳は自他共に認める女好きだ。
尋問の際、玄徳との係わりを問われ、記憶をなくして自失状態のところを助けられたと語った少女に、孟徳は「ここにいればいい」と、新たに「桂花」と名付けて、手元にいる限りその自由を保障していた。
自身のことは何一つ覚えていないというのに、女の身でありながら、馬を駆り、兵法や政に明るい。
変わっている。変わっているけれど、新鮮で興味をそそられる。
少女のやさしげな顔立ちと華奢な体つき。風にも流されそうな儚げな外見とは裏腹に、瞳には芯の強さが秘められている。
敵軍の大将であり、丞相である自分に対しても、その大きな瞳でまっすぐに見つめ返してきた。
孟徳は一目で彼女が気に入った。

だが――彼女は玄徳軍の人間。約した言葉に嘘はなかったが、容易くその言葉を受け入れることは孟徳にはできなかった。
人の気持ちなどいくらでも変わる――。
恩義を感じている玄徳の身内を目の前にして、態度をどう変えるかわからない。
孟徳は足を止め、残像のようににじむ月明かりを見上げた。
夜も更け、回廊には等間隔で明かりが灯されているが、雲間からもれ出る月明かりはひどく心もとない。
「…雲が多いな」
独り言ちた。日が落ちたときよりもはるかに多い、空を覆いつくほどの雲が広がっている。
この闇を逃亡の友とするなら悪くない夜だと思えた。
彼女はどうするだろう?

俺を裏切るだろうか――?

 

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