約束(4)

勝者の笑みを浮かべ、孟徳はそっと彼女を後ろへ押しやった。
「孟徳殿…!」
刀を抜くと、背後から悲鳴に似た声が上がる。
この声に応えて、孟徳は軽く左手を上げて、ひらひらと振った。
牽制するだけだ。
「引くのか、引かないのか。どちらだ?」
人を呼んで騒ぎを大きくするつもりはないが、いい加減に退場してもらう。
自分の許しなくこの部屋に入る者の存在を認めない。男ならなおのことだ。
「俺は別にどちらでも構わないが――」
桂花が見逃して欲しいと言ったから、取引を持ちかけたにすぎない。
「ここで生け捕られて、彼女の更なる枷になるか?」
皮肉めいた笑みに、子龍が唇をかむ。
子龍も理解している。なぜ桂花が孟徳の元に留まろうとしているのか。
だからこそ何も言えなかった。
「孟徳殿…」
鈍く光る刃と男たちの押し殺した殺気にあてられて、桂花は目眩を覚える。
「お願いです、やめてください…」
「――君のお願いはできるだけ聞いてあげたいけど、そっちはどうだろうね」
見せる表情は違っていても、ふたりとも互いを見据えて動こうとしない。
「子龍殿もどうか…。わたしは、戻りません」
「軍師殿――」
ひたと子龍を見つめるその瞳にも口調にも、すでにためらいや迷いは感じられなかった。
「聞こえただろう。戻って玄徳に伝えろ、彼女は返さない。――この子は、俺のものだ」

窓から身を躍らせた子龍の姿はすぐに闇の中に見えなくなってしまった。
孟徳が抜いた刀を納める。
ようやく息の詰まるような緊張感から開放され、桂花は体を壁にもたせかけた。正直そのまま座り込んでしまいたいくらいに力が抜けていた。
寂しさと安堵がないまぜになった、口を開けば泣き出してしまいそうな不安定な気分に蓋をするように、目を閉じる。
「大丈夫?」
そもそもの元凶である男の声が間近に聞こえ、頬に触れられた。瞬間ぴくりと体がこわばる。
「怖い思いをさせちゃったかな?ごめんね」
謝るものの悪びれた様子はさしてない。
力の入らない体を支えられて寝台まで運ばれた。
「あいつと行きたかった?」
間近で顔を覗き込まれて、返答に窮する。探るような、すべてを見透かすかのような目に見つめられて落ち着かない。
気持ちがどっちつかずに揺れたのは事実だから。
約束を守りたいと思い、しかし子龍とならひょっとしたら帰れるのではないか、とも思った。
戻りたい、戻れない。もしこの人が来なかったらどうしていただろう。
正直わからなかった。
「…孟徳殿が許してくれたのなら、そうしたかもしれません…」
「そっか。でも俺はそうはできなかった。俺を恨む?」
桂花は首を振った。
「でも泣きそうな顔をしてる」
「…そう、ですか?」
「うん」
桂花はもう一度首を振った。
恨むとかそういうことではない。ただ無性に寂しいと思った。
子龍の背中を見送ったとき、玄徳のもとにいた時のことが様々に思い出された。
自分が誰かもわからず、帰るべき家も自分を見知っている者も見つからず、不安でたまらなかったとき、玄徳はそばに置いてくれた。城を任された身でありながら、気安く声をかけ、何かと気遣ってくれた。
その居場所を、そこで築いた心の拠り所を、やむなくとはいえ手放してしまった――その喪失感に胸が締めつけられる。
ふわりと髪をなでられた。
「やさしいね、君は」
だから俺みたいな悪い男に捕まるんだよ。

そんな風に思いつつ、逆らう様子のない少女の体を寝台に横たえさせる。
「君は約束を守った。だから俺もあいつを追わない。それでいいね?」
黙って頷いた桂花は精も根も尽きたように目を閉じる。
「今夜はこれ以上の騒ぎは起きないから、心配しないで眠るといいよ」
肩で切り揃えられている髪に手を伸ばした。少女に、そばにいるのは誰なのかを理解させる。
幾度か梳くと、目を開いて自分を見つめ返してくる。
この瞳が好きだと思う。表情豊かなこの瞳に見つめられるとたまらなく心地いい。
それがたとえ悲しみの色をたたえていても、心地好く感じるから始末に悪い。
「俺がそばにいるよ」
孟徳はことさらやさしく、あやすようにささやく。玄徳との隔たった距離を埋めるように。
玄徳以外に頼るあてもなかった身を思えば、少女が感じているであろう思いを察するのは難しくない。
そうでなくても、孟徳は他人の心の機微に敏感だ。
案の定、見つめる瞳が少しなごんだ。
それでいい。孟徳は心の内でひっそりと笑む。
望みは叶えてやり、生まれた隙間にはやさしさで付け入る。
少女に対して寛容でやさしくありたいとの思いは本音だが、そこに思惑が潜むこともある。たちの悪さは自覚しているが、欲しいものを手に入れるためなら手段など問題にならない。
「おやすみ」
灯された明かりを消すその唇には、満足げな笑みが浮かぶ。
形はどうであれ、彼女は自らの意思でここにとどまることを選んだ。
今はまだ玄徳のところにも心が残っているが、ここで過ごしてきた時間は確実に根づいている。
いずれ迷いなく自分を選ぶようになる。いや、自分以外を選べなくする。
――全土統一のために玄徳は必ず排除しなければならない存在なのだ。

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