約束(2)

「わたしはここに残ります…」
昨夜同様、姿を現した子龍が窓辺へいざなうが、桂花は首を振った。
「危険を承知で来てくれたのに…申し訳ありません。子龍殿は一刻も早くここを離れてください」
「あなたは…孟徳の軍に降られたのですか?」
「いいえ…」
その声にかすかな不信を感じ、覚悟していたとはいえ胸に痛みが走る。
「ではなぜですか?玄徳様を始め、皆あなたがわが軍に必要な人間だと思っております」
訝しむ子龍を目の前にし、桂花の心に慕わしさと後ろめたさが同時に募っていく。
彼らと過ごした日々が懐かしくないといえば嘘になる。
記憶のない自分を迎えて居場所を与えてくれた玄徳のあの大らかさ。頭を撫でてくれた大きな手、雲長の静かに凪いだ瞳と翼徳の屈託ない笑顔、女の子同士たわいない会話を交わした芙蓉姫。
危険を顧みず敵陣深く迎えに来てくれた子龍にも感謝の気持ちしかない。
――だがそれと同時に孟徳が引いてくれたやさしい手も思い出してしまう。
孟徳軍でひどく扱われているわけではない。むしろ逆で、名目上は捕虜であったが遇し方は賓客扱い。
子龍の身の安全はもちろんのことにしても、黙って出て行くことも、ましてや彼との約束を破って裏切るような真似もしたくなかった。
そう思うほどに、彼女はここでの生活にも馴染んでしまっていた。
――それこそが曹孟徳の意図したところであったのだろうけれど。
「玄徳様の元へお連れします。どんなことがあっても――必ず」
桂花の迷いを不安と取ったのか、子龍に真摯に言い募られて心が揺れる。
「……わたし、は…」
「!」
言いかけた言葉を子龍が手で制した。
何事かを察した子龍が扉に目を当てたまますばやく桂花の脇に体を寄せる。
その手にはすでに抜き身の刀が握られていた。
視線の先を追うように、桂花も戸口へ目をやる。誰か、などと考える必要もないくらいわかっていた。
音もなく扉が開き、男――曹孟徳が姿を現した。

構えることのないゆったりして動きだが、隙がうかがえないのか子龍も微動だにしない。
室内の空気は一変していた。
首筋の産毛が逆立つようなちりちりとした感覚、それほどに孟徳の存在感は圧倒的で、焦燥感をあおられる。
「――勇猛と名高い趙子龍を迎えに寄こすとは、玄徳にとってよほどの大事と見える」
張り詰めた空気の中、先に口を開いたのは孟徳だった。
「彼女が優秀な軍師だからか、…それとも別の理由があるのか」
口調は揶揄するものだが、その目は笑っていない。
孟徳は一定の距離を保って立ち止まる。刀の柄に手をかけてはいるが抜いてはいない。だというのに、見えない刃に肌を撫でられているようで、桂花は息苦しさから小さくあえいだ。
薄暗い室内であっても、緋色の衣があまりに鮮やかに見え、心臓がきりきりと痛む。
自分と接するときは軽薄ともやさしいともいえる男だが、ひとたび戦となれば苛烈な一面を見せるのを知っている。
あの時――。
玄徳の命で避難民を麦城まで先導していた途中、孟徳が率いた精鋭に追いつかれ、荷車に火矢を射掛けられた。
炎が広がる中、抵抗できぬ民たちが逃げ惑う。
その様を、面に表情を表すこともなく、炎を見つめていた赤い衣の男――。
あの時は曹孟徳本人だと知る良しもなかったが、やはりその威圧感は桂花を立ち竦ませるのには十分だった。
孟徳軍に従うを良しとせず、玄徳を慕い城を出た民――直接人命に害を与えることはなかったけれど、それでも逆らうものに対する過酷なまでの仕打ちを無表情にやってのけた。
民に対してそれならば、将を目の前にしてどうするのか。
どちらも武に秀でた将だ。
だが今は子龍は得意の槍を手にしておらず、孟徳はその気になれば衛兵さえ呼べる。圧倒的に有利なのだ。

 

web拍手 by FC2

前へ  総目次  次へ