対面(3)

「わたしは……」
梅里は言葉につまる。教えてくれと言われたところで、語るべきものは失われてしまっている。
今ここにある自分は、玄徳に出会った以降のわずかな形しかない。そのことをまた強く意識して胸が塞いだ。
「……梅里と呼ばれていました。玄徳様のところでは…」
「玄徳のところではって、どういうこと?」
「この名前は玄徳様に付けていただいたものです」
目の前の男が続く言葉を待っている。
「その…わたしは、玄徳様にお会いする前のことは覚えていなくて……」
「覚えていない?」
はっきりと疑いのこもった声が文若という文官から発せられた。
「文若」
「……失礼しました」
再度たしなめられて彼は口をつぐんだが、不審がられても仕方が無いと梅里も思っている。自分自身さえ、その身に起きたことが信じられなかったのだから、他人ならなおさらだろう。
「続けて」
「あまりお話できることはないのですけど…」
そう前置きして、促されるままに梅里は話し始めた。

隆中で、体中傷だらけで朦朧としていたところを玄徳等に見つけられて保護されたことが始まりだった。
ただ正直、その時の記憶も残っていない。覚えているのは新野の城で目を覚ましてあとのことだけ。
体の大部分に打撲や掠り傷を負っている状態で、おそらく山の斜面を滑り落ちたのだろうと言われた。
記憶がなく、怪我もあって寝台から動けない日々が続き、身元探しも難しかった。
ただ少しすると、近くで野盗の襲撃を受けたと思われる亡骸がいくつか見つかったりしたことから、その被害者のうちの一人ではないかという話になった。野盗に追われ山中に逃げ込んだところを転落した――そんな推測が立てられた。
たとえそうでなかったとしても、記憶のない一人の少女の身元を調べるのは難しい。
記憶が戻るまでいればいい。戻る場所がなかったらずっといればいい。塞ぎがちだった梅里に、玄徳はそう言ってくれた。
傷が治って動けるようになると、玄徳の身の回りの世話を願い出た。そんなことはしなくてもいいと言われたが、何もしないでただ置いてもらっているのは心苦しかったし、恩返しをしたかった。
それから時折、子供たちの遊び相手を努めたり勉強を教えてやったり、多少農作業の知識もあったから助言もできた。
そんなときだった。
孟徳軍が攻めてくる――。
その報に触れたのは、自分の居場所を築き初めて少しずつ落ち着いてきた頃だった。

「お話できるのはこれくらいです…」
記憶がないと言ったところで信じてもらうのは難しい。頭の中を覗くことなんて出来はしないのだから。
だが孟徳は疑いの目をむけることもせず、あっさりと言った。
「うん、君の事情はわかったよ。大変だったね」
「………信じて、いただけるのですか?」
「信じちゃいけないわけ?」
呆気にとられている梅里を見て孟徳は屈託なく笑った。
「わたしが、嘘を言ってるとか思われないのですか?」
「君は嘘をついていない。そうでしょう?」
「そうですけど……」
あまりにあっさりし過ぎているので却って不安になる。
どうしてそんなに簡単に人の言葉を信じたりできるのか。玄徳にもそういうところがあったが、それとは違う気がする。そもそも自分は敵方の人間で、簡単に信じることなどできないのが普通なのに。
梅里の戸惑いをよそに、孟徳は探るようなまなざしを向けてくる。
「でもさ、そんな君がどうして新野のおとり作戦に参加していたの?」
「玄徳様が心配でしたし……」
「ふうん? 心配、か。そこまで想われているとは、玄徳がうらやましいね。芙蓉ちゃんといい、あいつは恵まれてるよなぁ。うちはごついのと辛気臭いのしかいないからなあ……。君も芙蓉ちゃんと同じで部下として戦場に立っていたってことだよね?」
冗談めかした口振りながら、目の前の男は核心に近づく問いを投げかけてくる。
動悸が早くなり、落ち着かない気分が広がっていく。
「仕官していたわけではありませんから、部下としてというのは違いますが……。お役に立ちたいと思いました」
「それにしては君は軍装を着けていなかったよね」
「わたしは直接戦ったりはできません……」
「だけど戦場に立っていた? どうして?」
止まない追求に怯みそうになる。でもやはり逃げるわけにはいかない。
「責任がありましたから…」
「なんの? 君みたいな女の子がなんの責任?」
強い目の光――たぶんこの人は感づいている。それでいて言わせたいのだと、梅里は察していた。
気持ちを静めるために、一度視線を外して目を閉じた。
汗ばんだ手をぎゅっと握り締める。
そしてまた孟徳へと視線を合わせ、ようやくその一言を口にした。
「――策を立てたのは……わたしですから」
「なるほど、ね」
「……お前みたいに記憶のない者が策だと?」
満足そうに孟徳の目が細められる一方、眉間にシワを深く刻んでいるのは文若だった。信じられないという表情をしている。
「記憶がないのは自分のことだけです。不思議ですけど、書から得たような知識などは残っています」
「じゃあ孫長卿の書なんかはずいぶん読み込んだってことかな」
「そう…みたいです」
「女の子がそんな書を読むなんておもしろいね」
女が兵法書とは呆れられても仕方がないところだが、嫌味で言ってるわけではなさそうで、言葉どおり純粋におもしろい、言い換えれば珍しいと思っている様子が孟徳には見えた。
「でもまあその成果は元譲が身をもって知ってるしな」
「………」
隻眼の武人から溜息に似た低い呻きが漏れた。
漢の丞相、曹孟徳の懐刀と言われる武将――孟徳の肩越しにちらと見やる。
自らの手で剣を振るったわけではなくても、それでもこの人の下にいた多くの兵を殺したのは自分に他ならない。
味方を生かすために、敵を殺す。死にたくなければ殺すしかない。殺したくないと思いながらも、守りたいもののために人を殺す。
戦場では当たり前の行為だとしたところで、傷みが消えてなくなるわけではない。

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