桂花(1)

「起きてる?」
「あ、はい」
扉の向こうから聞こえてきた声が、曹孟徳のものだとすぐに気づいた。
「具合悪くない? 昨日は眠れた?」
「……眠れました」
ぐっすり眠れたわけではないが、まったく眠れなかったわけでもない。
「どうしてるかと思って来てみたんだけど―――退屈してたかな?」
勝手に出歩くわけにもいくまいと、することもなく窓辺に座って空を眺めていた。ただそうしていると頭に浮かんでくるのは玄徳らのことばかりで、もう会えないのかもしれないと思うとやはり悲しかった。
「何考えてたの? 玄徳のこと?」
梅里は思わず目を逸らせた。置かれた状況を考えれば当然のこととはいえ、まるで心を読むような言葉にどきりとする。
敵として戦ったのはわずか数日前のこと。気が咎めているせいか、孟徳から玄徳の話題を振られると、言外に責められているようで身がすくむ。
「ふーん。ま、今はまだしょうがないね」
ところが孟徳はさして気にもしない様子で話題を変える。
「閉じこもって考え込んでるんじゃ体に良くないし、庭に出ない? 君に見せたいものがあるんだ」
どうしてそう頓着せずにいられるのか戸惑ってしまうが、従うより他はないように思えた。幸い孟徳は好意的で、抗うことに意味はない。
「…見せたいもの、ですか?」
「うん、じゃあ行こうか」
そう言って部屋を出る孟徳を梅里は慌てて追った。
「あの、どこへ…」
「着いたらわかるよ」
楽しげに言う孟徳のあとをついて回廊を行き、くりぬき門をくぐり庭園に向かう。
どこかで水音がしていた。
廊を行き、池に渡された曲橋をいくつか過ぎると次第に音がはっきりしてきて、やがて大人の背丈二つ分くらいの落差がある滝が現れた。漢水から水を引いているのか、意外に水流が多い。
近くまで行くと、流れ落ちる水音に思わず足が止まった。
急に心臓がどくどくと脈打ち始めた。耳鳴りがする。
飛沫を上げる水音が、川に落ちたときの記憶と重なっていく。
自分の体が水面を割る音。全身を押し包んだ冷たい水流。逆巻く波音が耳になだれ込んできて記憶を埋めた。
「どうしたの?」
足を止めた少女に気づいて孟徳は振り返った。
「―――手つなごうか」
孟徳は表情を見て取ると、青ざめ胸を押さえている少女に向かって手を差し伸べた。
「濡れてるから、滑ると危ないし」
「あ、あの…」
それは少女にとってはよほど意外な申し出だったのだろう、大きな目をぱちぱちと瞬いている。
「大丈夫だよ。俺がつないでいたら落ちたりしないから。水が怖いんでしょう?」
「…おかしいですよね。こんなに浅いのに……」
少女は困ったように曖昧に微笑んだ。
「そんなことないよ。死にそうな目にあったばかりなんだから仕方がないさ」
小道はこのまま滝の裏側へ回り込むように通されており、そこからさらに奥庭へと続いていた。
無理強いするつもりはないというように、孟徳は少女に選択を委ねる。
「見せたいものはこの先へあるけど、どうしても気が進まないっていうなら戻ってもいいよ。どうする?」
梅里は不思議そうに孟徳を見つめた。
なぜこの人はそんなことを言うのだろう?
捕虜の意向など気にする必要などない。望むままに命令すればいい立場だというのに。
そんなことを思いながら差し出されたままの左手を見つめると、掌に見えていた影が、実はそうではないことに気付いた。痣のようにも見えるけれど、でも―――。
「あ、気がついた? 火傷の痕、ちょっと目立つから隠してるんだ」
少女の視線の意味に気づいてか、孟徳は掌を上に向けた。
「情けない失敗でついた傷だからあんまり見たくないのに、常に目に入るところにあって嫌なんだよね」
孟徳は目を眇め僅かの間掌を眺めた後、ぎゅっと握りしめた。
「そのときの嫌な痛みまで思い出すしさ」
握った拳の強さに、軽い口調とは裏腹な別の含みがあるような気がして引っ掛かりを覚える。けれどさすがにそこまで踏み込んで尋ねることなどできなかった。
「いや? やっぱり気になる? 反対の手でつなごうか?」
「いえ…大丈夫です」
「ほんと? 良かった、はい」
再度差し伸べられる左手。
火傷の痕が嫌なわけではないが、男性と手をつなぐことに戸惑いはある。けれど傷痕を気にしている様子を思えば、その手を拒むことは孟徳を傷つけるような気がした。
そうでなくてもこの手は、足をすくませた自分を気遣って差し伸べられたもの―――。
白い手が、火傷で色変わりしている皮膚を覆った。
「…こうしていると見えませんね」
微笑んだ少女の言葉に、孟徳の方が意表をつかれた。
「……―――ああ。本当だね」
とたんに破顔する。少女のやさしさと素直さが純粋に嬉しい。抱きしめる代わりに、小さな手を握りしめた。
「君は大丈夫? 水、怖くない?」
赤く染まった顔で、梅里は慌てたように首を振った。目の前の満面の笑みに、怖いという感情など一瞬どこかに吹き飛んでしまったみたいだ。
炎の中で畏怖を感じた同じ人物が見せる、子供みたいに無邪気な笑顔。手を握られているのと相俟って、鼓動がまた忙しく脈打ち出した。けれどさっき感じた体が冷えていくような苦しさとはまったく違う、逆に熱が上がるような感覚にどぎまぎする。
「そう、良かった。俺たちこうしているとちょうどいいわけだね」
手をつなぐことで互いの不快や不安が相殺される。偶然とはいえ生まれた過不足のない調和に満足して、孟徳はゆっくりと歩き出した。
「本当にこうしているとかわいい普通の女の子なのになあ」
握った手に力を込めると、さらに赤くなった。
「どこにあの豪胆さが隠れているんだろうね」
頬を赤らめる少女は何のことかという表情だ。孟徳は続けた。
「そんなにあいつが大事? その身を盾にするほど」
言わんとすることがわかったのだろう、少女が目を伏せる。
「……わたしは玄徳様に命を拾っていただきました」
「恩人か」
本当にそれだけなら。助けられたというだけなら、自分にもその資格がある。
「だったら俺のこともいつかはそんな風に思ってくれるのかなー?」
玄徳と同じように。いや、それ以上に。

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