桂花(4)

結局、「半分ずつにしよう」と言い出した孟徳と二人で茶を分け合った。
そうした振る舞いに感じる面映いような気恥ずかしさは、話上手な孟徳と向き合っているうちに自然と落ち着いていた。
「ところでさ、君は本当の名前がわからないんだよね」
「…はい」
昨日の話を信じてもらえていなかったのかと思ったが、続く孟徳の言葉は意外なものだった。
「だったら俺も君に名前をつけていいかな?」
「え…?」
「―――それともやっぱり今のままがいい?」
思わぬ問い掛けに、梅里はすぐには答えられなかった。
何もないところから少しずつ積み重ねて、ようやく慣れてきていた名前。玄徳から付けられた名前でもあり、それを失うことはつながりまで無くすような怖さもある。
―――それが意図するところ? …それともただ単にそうしたいから?
どちらも十分に考えられて、孟徳の表情を伺うが、何も答えてはくれない。口許には笑みを湛え、からかうような口調。なのに瞳にはそうではない別の感情があるような気もする。
わからない人だと、梅里は思う。
名付けたいと言いながらも、命令するでなく、どこかで選択を委ねる物言いをする。今もこのままがいいと答えれば、おそらくそれも認めてくれるつもりなのだろう。
わずかな逡巡の後、孟徳が望むのなら、と梅里は思い直した。
玄徳への申し訳なさは感じる。けれど捕虜とは名ばかりで、格別の扱いをしてくれる彼の望みを無下にするのもやはり心苦しかった。
それに玄徳が恩人なら、孟徳もまた同じ。あのまま川の中に沈んでいたら生きてはいなかったし、そして今も孟徳に許されているからこそ命がある。
「いえ、どうしてもということでは…」
「それって俺が名前をつけてもいいってこと?」
梅里が頷くと、孟徳の声がとたんに弾んだ。
「ほんと? ほんとにいいの?」
「あ、はい」
孟徳の嬉々とした様子に、押されるように梅里は再度頷く。
「そっかぁ」
にこにこにこにこと、孟徳から笑みが溢れている。
名前を付けることがそれほど楽しいことなのか、梅里には孟徳の笑みの意味がわからなくて首を傾げてしまう。
「わからなくてもいいよ」
そんな少女に孟徳は笑んだまま続けた。
「それじゃあ―――桂花なんてどうかな?」
「桂花?」
「女の子に花の名前ってかわいいし、君はこの花が好きでしょう?」
目の端で揺れていた花弁に、伸ばされた指が触れてくる。
「それに初めて笑ってくれた」
「え?」
「いい匂いですねって、すっごく明るく笑ってくれた」
まるでそのことが一番大事だとでも言いたげな口振りに、梅里の方が驚く。
「そんなことで…?」
「俺にとっては結構重要なんだけどな。なにしろ昨日の君ときたら、俺に取って食われるんじゃないかって怯えていたし」
「それは…」
「うん、仕方ないよね」
孟徳もそれは理解している。だからなおのこと笑って欲しかったのだ。
「でも今日はいろんな顔を見せてもらった。不安そうな顔、笑った顔、びっくりした顔」
今も少し頬を赤らめている。表情豊かにくるくると変わる様は、見ていて飽きないとさえ思った。
「で、どうかな? 桂花って名前。気に入らない?」
どこか迷いを感じる少女の様子に、孟徳は怪訝そうに訊く。
「そういうわけでは…」
気に入らないのではない。綺麗な名前だと思う。
けれど桂花は古くから親しまれ、幸運を招く木とも、天界生まれの花とも言われる。
そんな花の名前を、自分が名乗ってもいいものだろうか。
「…なんだか名前負けしそうです」
素直にためらいを口にすると、孟徳が急に身を乗り出してきた。
「全然そんなことないよ! 大丈夫、絶対かわいいよ。俺が保証する」
孟徳の熱心な主張に、保証の意味も理由もどうしてそうなのかよくわからないけれど、妙におかしくなって思わず梅里―――桂花は笑った。
「気に入ってくれた?」
「はい」
「うん、桂花―――桂ちゃんか」
孟徳は自らが名付けたその名前を確かめるように口にする。
「桂ちゃん」
「…はい」
呼びかけるような声音に返事をしただけなのに、顔が火照るのが自分でもわかった。孟徳があまりに嬉しそうに楽しそうに笑んでいるので、どきどきしてしまう。
玄徳に名前をつけてもらったときは気持ちが落ち着いた覚えがあるのに、孟徳が相手だと勝手が違う。
「君ってすぐに赤くなるよね。かわいい」
「……からかってらっしゃるんですか?」
今日はもう何回その言葉を聞いただろう。
視線を遮るように、俯きがちに孟徳を見上げた。
「そんなことないよ、本当にそう思ってる。あ、その目かわいい」
「…!」
孟徳の言葉に反射的に目を閉じて、今度は思いっきり顔を伏せた。
「花が落ちちゃうよ、顔上げて」
落ちかけた花を、赤くなっている耳に掛け直して孟徳は笑う。
「かわいいって言われるいやなの?」
「…その…慣れていなくて…」
「あれ? そうなの? こんなにかわいいのに」
宴席などで酔った男性が言うのは珍しくないが、孟徳のように素面であるにもかかわらず事あるごとに繰り返す人は知らない。
「玄徳は?」
「え?」
「あいつに言われたことないの?」
「…玄徳様に、ですか?」
急に玄徳の名前を出されたことに戸惑いながらも、桂花は少し考えて答えた。
「いえ…。…覚えがありません」
「ふーん」
じっと見つめてくる孟徳に、桂花はそこはかとない不安を覚える。
言葉ではうまく言えない感覚的なものだが、何かを含んでいるようで居心地が悪くなってしまう。
「あの…」
「ああ、ごめん。なんでもないよ、こっちのこと」
桂花の不安を感じ取ったのか、孟徳はすぐに柔らかい笑みを浮かべた。

 

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