桂花(2)

注意しなければ話し声が聞き取れないほど水音が大きくなり、孟徳の意味ありげな言葉に返す言葉を飲み込んだ。
洞窟のような造りの滝裏は薄暗く、廊のすぐ脇を水が簾のごとく流れている。決心して足を踏み入れたものの、反響し振動するような水音にとたんに呼吸が浅くなった。
手が強く握られた。
「あ…」
心配そうな目と合い、その口が動いた。「やめる?」、そう聞こえた。
孟徳の感情を読む鋭敏さに驚きながらも、梅里は知らず知らず首を振っていた。
こうして手を握られ、案じるような目を向けられただけで、不思議な安心感に包まれた。まだ少し早い鼓動が続いていたが、息苦しいような感じは収まりつつある。
梅里がコクリと頷くと、孟徳が再び歩き出した。それでも怖がらなくていいようにという配慮なのか、通り抜けるわずかな距離も、寄り添うように隣を歩いてくれた。
仄暗い滝裏を抜けると、眩しさに目が眩み思わず目を閉じた。そのまま手を引かれながら、明るさに慣れようと瞬かせた目に飛び込んできたのは、緋色―――。
「大丈夫?」
あまりの近さに驚いて体を離しかけたが、握られたままの手に引き戻された。
その瞬間、突として浮かび上がった記憶の断片。背後に聞こえている水音、緋色の衣、そして掴まれた腕が一瞬にして結びついて、脳裏に像を結んだ。
「……緋(あか)」
「ん?」
「…水面に…緋い色が広がって…」
どこか遠くを見るように梅里は孟徳を見つめた。
水を吸った衣が重く手足に絡みつき、浮かぼうともがく体を容赦なく水底へ引きこもうとしていた。息ができなくて苦しくて、気が遠くなって―――。
最後に見たのは水面に広がった緋色の、何か。
「……わたしを川から引き上げてくれたのは……?……」
多分この人の衣の色。
「―――意識はなかったと思ったんだけどな」
やっぱりそうなのだ。
「浅瀬の方へ流れてくれて助かったよ。深みに巻き込まれたらちょっと苦労したと思うから」
人を遣ったのではなく、自ら水に入って助けてくれた。だからこその先程の言葉。
でも、なぜ? どうして?
疑問しか浮かんでこない。丞相という立場のある人が、さっきのことといい、小娘一人にどうしてそこまでのことができるのだろう。
孟徳は小さく笑った。
少女は素直だ。思っていることを推察することはさして難しくない。大きく見開いた目に浮かんでいるのは驚きと疑問。
「理由が知りたいの? 助けたのは君が気になったからだって、昨日言ったよね?」
「それはお聞きました…でも」
「同じことだよ。気になった女の子を人任せにしたくなかっただけ」
「敵だったのに…?」
「女の子は女の子だよ。敵だとかそういうのは大して関係ないかな」
そこは掛け値なしの本音。女好きだと色々言われたりもするが、悪いことだとは思わない。
武人として戦場に赴いていたのならいざ知らず。そうでない彼女は本当なら守られるべき存在で、戦の中で散るのは間違っている。
けれど少女にはそうした男心は理解できなかったらしい。
「…変です」
小首を傾げ愛らしい唇からこぼれた言葉は、とても単純だった。
「も、申し訳ありません!」
丞相に向かっての不躾な発言に青くなった梅里を余所に、孟徳は声を上げて笑い出した。
単純で素直な感情の発露は、それだけで孟徳に心地良い笑いをもたらす。
「謝らなくていいよ。丞相なんてまともな神経の持ち主じゃやってらんないのは確かだしね。―――ああ、でも」
思い出したように付け加えられた。
「申し訳ありませんじゃなくて、ごめんなさいがいい」
「え…?」
「ごめんなさい」
急に顔を近づけられて繰り返された。言うのを待っている気配を感じて梅里はしどろもどろに言葉を返す。
「ご、ごめんなさい…?」
どうしてそうなるのかわからず、言葉尻が上がって疑問形になった。
「うん。その方が親しい感じがするでしょう?」
それを聞いて、少女が目を白黒させる。
「し、親しい?」
「そうだよ。俺は、君と仲良くなりたい。だから言葉遣いや態度も畏まられたくない」
「あの、でも…」
ますます梅里の混乱は深まった。
つい数日前は敵同士。負けて捕らえられたわけだが、相手は総大将であり丞相で、どうして一介の捕虜と雲の上の存在であるはずの丞相が親しくなど交われようか。孟徳があまりにやさしく接してくれるで勘違いしてしまいそうだが、普通なら話しをすることもなく、ましてや手をつないでいることなど有り得ない。
「それは…周りの方々がいい顔をなさらないでしょう」
いつまでも手を握っているのもおかしな気がして、そっと手を抜こうとしたら、引き留めるように握り直された。
「ひょっとして文若のこと? それは心配ない。あいつも君の才は認めたからね。もうどうこう言ってくることはないと思うよ。ま、誰だろうと俺の決めたことをとやかく言わせないけどね」
丞相という立場の権力の大きさ、孟徳の言葉が誇張でもなんでもないことは梅里もわかっている。だというのに、自分に対する態度や行動はどう考えても厳めしい権力者のそれとは一致しない。
「すぐには無理だろうけど、少しずつ俺に慣れて」
笑んだ孟徳をそれとなく眺めた梅里は、やっぱり変、と思いながらも今度は声には出さなかった。

web拍手 by FC2

前へ  総目次  次へ