桂花(5)

けれどその笑みは瞬く間に落胆した表情へと変化する。
「あーあ、かわいくないのが来た」
孟徳の溜め息混じりの声に、太い声が桂花の背後から続いた。
「こんなところにいたのか。お前がいないと話が進まない」

覚えのあるその声に桂花は立ち上がる。
「もう来たのか…」
「ようやく、だ。みんな探しているぞ」
諌めるというより呆れるといった印象の口振りに、普段の二人の関係が垣間見える。
曹孟徳腹心の武将―――元譲を前にして、桂花は戦の怖さや人の生死を左右することの重さをいやでも思い起こしてしまう。
硬い表情で会釈する少女に目を当て、元譲は軽く頷き返した。
「時間切れか、しょうがないな。続きはまた今度にしようか」
孟徳は渋々といった態で立ち上がりながらも、神経質な様子を見せている桂花に穏やかに笑みかけた。
「滝のところまで一緒に行こう。そこからは一人で戻れるかな?」
「…はい、大丈夫です」
そうして孟徳から差し出される左手。
「…滝はまだ先です…」
「そうなんだけど。―――痕、隠してくれる?」
「痕?」
孟徳の言葉に元譲が反応し、どこか意外そうだったその声に、桂花も孟徳を伺い見る。けれど孟徳は答えることなく、代わりにがっかりしたように肩を落とした。
「あれ? ダメ?」
「いえ…だめということでは…」
大げさな仕草は明らかに芝居だとわかるのに、悪いことをしたような気分になるのは、見たくない傷だと孟徳が言ったのを本音だと感じていたからだ。
たださっきとは状況が違っている。つい元譲の方へ目が向いた。
「気にする必要なんてないんだけどなー」
躊躇する理由に気付いた孟徳は、不服そうな声を出しながらも自らの欲求を満たすべく命じる。
「元譲、お前は前を歩いて後ろは振り返るなよ」
「………わかった」
隻眼を眇められた挙げ句、背を向ける前に大きなため息をつかれてしまった。
そうではないと、自分がねだったような恥ずかしさに喉まで出かけた言葉を、桂花は悟って諦める。
他人の目がないならともかくと思ったことを、孟徳が状況として作り出した結果に過ぎない。もちろん桂花にとっては他に人がいないならという意味だったのだが、たぶんどころか、十中八九そうとわかってのことだろう。ならば言っても意味がない。
「これでいいか?」
「いいよね?」
呆れた声に、期待しきった声が続く。
そのにこやかな声と笑顔に、ただ手をつなぎたいだけなのではという穿った考えが浮かばないでもない。
……でも…笑っていて欲しい―――。
孟徳が自分の笑顔に特別な思いを寄せてくれたように、桂花もまたそんな風に思ってしまった。
別の一面を知っている。 炎の中で、強者の絶対的な力と非情さを見せつけられ、足がすくんだ記憶…。
「ありがとう」
なのに今、伸ばした手を包むその手は、温かくて優しい。
歩き出す孟徳に手を引かれながら、桂花はつながれた互いの手を見つめていた。
孟徳のその手に火傷の痕があることなど普通なら知る術もない。
差し伸べられる手の温もりや人懐こい笑顔―――接することで初めて知った曹孟徳の素顔。
戦場での苛烈さを知らないわけではない。…―――けれどそれが全てでもない…。
戦を離れた曹孟徳は、他の人と何も変わらないように思えた。
同じ感情を持つ人間―――大軍団を率いていようと、丞相という特別な立場にあっても―――自分と同じ。
笑ったり怒ったり、時には泣いたり―――…。
…大人の男の人だから、泣いたりはしないだろうか? それに丞相ともなれば私的な感情は控えるかもしれない。
何気なく想像を巡らせてみたが、やはり現実味のないことのように思えてなかなか浮かんでこない。代わりに頭の中を行き交うのは満面の笑みだけ。
その笑顔が不意に、頭の外へ飛び出した。
「ねえ?」
「は、はい!?」
鼓動が跳ね上がり、声が上ずった。孟徳が顔を寄せていたことに今更ながらに気付く。
「考え事? 心ここにあらずって感じだったよ?」
「…すみ、ごめんなさい…」
目の前にある笑顔に思い出して途中で言い改めると、孟徳がうれしそうに目を細める。
「これくらいのことで謝らなくてもいいけど、何考えてたのかは気になるなあ?」
「え!?」
「何考えてたの?」
「そ、れは……」
「うん、それは?」
顔を寄せたまま重ねて問われるが、まさか本人に向かって泣き顔を想像してたなど言えるはずもない。今日はもう散々不躾なことをしてしまった後でもある。
「その…」
返事のしようがなくて言い淀む桂花に、孟徳の方はますます内容が気になってしょうがないといった様子だ。
「教えて」
言葉と共につながれていた手をきゅっと握られた。
「…っ、秘密…っ、です!」
反射的に飛び出した一言。
思いもしなかった言葉に、孟徳は―――口にした桂花さえも―――無言になって、思わず二人で顔を見合わせた。
数瞬後、孟徳が吹き出すと、見る見るうちに桂花の頬が真っ赤になっていく。
「秘密かあ。かわいいこと言うなあ」
「いえ…あの…」
切羽詰まってのこととはいえ、口をついて出たのはなんとも子供じみた言葉。
呆れられるかと思えば、孟徳は目を細めて笑うばかりで、やはり桂花はどう反応していいのかわからなくなる。
「君に秘密を持たれるのはいやだけど…」
困り顔の桂花に、孟徳はようやく追求したい気持ちを収めた。
「今日はその可愛さに免じて、これ以上聞かないことにするよ。…あいつもうるさいしね」
そう孟徳が元譲の方へと視線を投げると、聞こえたのか先程から繰り返されていた空咳が一際大きくなった。十数歩先へ行った辺りで彼は振り返ることもなく、こちらが歩き出すのを待っている。
「でも、そうだな。今はダメでもいつか教えてくれる? それともずっと秘密?」
孟徳が再び手を引きながら、振り返り尋ねる。
桂花は今度はゆっくり考えて言葉を選ぶ。
「………その時が来たら…で、いいですか?」
「その時?」
訝しみながらも、孟徳は笑顔で答える。
「うん、それでかまわないよ」
「なら…はい」
「約束だよ、忘れないでね」
念を押すように、約束を交わした印のように、握られた手に力がこもった。
早くなる動悸に慌てて桂花が頷くと、孟徳は満足したように前を向いた。

けれど…そんな日はきっと来ない。
元譲と軽口を交わす孟徳のその背に、桂花は心密かに思う。
来るわけがない。…この先曹孟徳個人に、深く関わることなどあるはずもない。
戸惑いに波立つ胸の奥で、桂花は繰り返し言い聞かせていた。

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