桂花 番外

「とにかくかわいいんだよ。取り澄ました感じはないし、媚びたりもしない」
「そうか」
「やさしくて素直だし。恥ずかしがり屋ですぐに赤くなる」
「そうか」
「なにより嘘をつかないっていうのがいい」
「そうか」
鼻歌でも出てきそうな上機嫌な従兄弟は、聞かせているつもりなのだろうが、こちらの生返事を一向に介さない。
「今度遊びに誘おう」
「そ―――」
聞き捨てならないことを言われた気がして、慌てて言われた言葉を咀嚼した。
「仕事が終わってからにしてくれっ。文若が倒れる」
相変わらず手の早い男だと思う。昨日の今日だ。
朝議を早々に切り上げて広間を出て行ったかと思えば、続く会議にいつまで経っても戻ってこない。書吏を動員して探す羽目になったが、それでも見つからない。
まさかと思いつつ、例の捕虜のところへ行ってみれば部屋はもぬけの殻で、件の少女は丞相が連れて行ったという。茶の支度をしたという侍女から東屋の場所を聞き出し、ようやく見つけてみれば孟徳は宝でも愛でるみたいに双眸を和ませていた。
―――少女はかなりの年下に見えたが、そんなことはこの男には関係ないのだろう。
元譲は我知らずと溜め息を付いていた。
「ずいぶんあの娘が気に入ったみたいだな」
「ああ、気に入ったね。あんな子は探したってそう簡単に見つかるものじゃない」
一歩前を歩く孟徳の声は、隠そうとしない喜色に溢れている。
もともと女好きの孟徳ではあるが、こうまで強い関心を示すのは珍しい。
確かに見目は悪くない。それに孟徳が好む知性を持っている。
昨日の少女の態度にしてもあっぱれだった。敵陣で、丞相という立場の人間の前に一人引き出されても、彼女は前を向いていた。極度の緊張と怯えがあっただろうに、それを必死に押し隠そうとさえしていた。
その様子は元譲にさえ好ましく思えたものだ。彼女の策で多くの将兵を失っているのでなければ、手放しで称賛したいところだった。
「それであの娘、梅里といったか―――」
そう言った瞬間、孟徳が振り返った。
「桂花」
「は?」
ずいぶん間の抜けた声だったに違いない。
「桂花だよ、桂花」
「どこだ?」
桂花の木がこの辺にあっただろうか、というかその話の流れはなんなんだと思いながら、辺りを見やる。
「そうじゃない。彼女の名前だ」
「昨日、梅里と……」
「それは玄徳がつけた名前だろ。今日からは桂花、それが俺のつけた名前」
それを聞いて、ああ、そうか、と胸の内でひとりごちた。
因縁浅からぬ玄徳のもとにいたことが、あの少女に対する執着心に火を注いでいるのだと理解した。
「で、桂ちゃんがなんだって?」
「いや…それであいつは、桂花は、お前に仕官しそうなのか?」
「昨日の今日だ、まだしばらくは無理だな。…だけどやさしい子だ。すべてを拒むことは難しいだろうさ」
「いずれは受け入れる、か?」
「―――やさしさは彼女の美点だが、自身を縛る枷とも成り得る」
「枷?」
答えることなく孟徳は薄く笑った。
「まずは俺を知ってもらうことから始めるさ。時間はあるんだ。焦るつもりもない」
帰す気などない、そうほのめかして。
無論そうだろう。あれだけの戦術を立てられる者をむざむざ帰すわけはない。
孟徳は女人にはひたすら甘いが、一軍の大将として敵を利するような愚かさは持ちあわせていない。そしてその執心を思えば、少女が玄徳の元に戻りたいと泣いて懇願したとしても、その望みはかなわないだろう。―――泣いて懇願する娘かどうかは別としてだが。
孟徳は頭のいい男だ。しかも女に関してはあらゆる面で長けている。
相手は聡明だが人生経験の乏しい、ひょっとしたら恋も経験したことがないかもしれない年若い娘。放っておいてもうまくやるだろう。
だから細かいことは言いたくない。―――言いたくはないが、孟徳のいつにない執心が一抹の不安を感じさせる。
「あとあと面倒を起こしてくれるなよ」
「苦労性だな」
「ほっとけ」
笑う孟徳に、誰のせいだと言ってやりたかったが、広間が近づいていたので軽口を収めた。
近しい者の気安い関係から、上司と部下のそれへと変化させる。
孟徳より少し先を行き、広間に告げた。
「丞相が戻られた!」
その一言で揃っていた面々が各々の座へ収まっていく。
丞相の顔付きになった男が眼前を過ぎる。先程までの少女と戯れていた男の姿はどこにもなかった。
「待たせたな」
詫びるでなく、孟徳は広間奥中央に昂然と歩を進めていく。
「始めろ」
座に着くと、厳格な声で告げた。
他者が侵すことを許さないその威厳。求められる存在―――丞相としての曹孟徳が今ここに在る。

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