桂花(3)

風を感じると、かすかだが甘い香りを含んでいる気がして梅里は周囲を見渡した。
けれど目の前には築山があり先を見通せず、振り返れば通ってきたばかりの滝といくつもの曲橋が見えるだけで、香るような花は見当たらない。
「花は好き?」
視線をさ迷わせていると、また考えを読まれたような言葉で声をかけられた。慌てて孟徳へ視線を移す。
「はい」
「特に好きなのはある?」
「そうですね…これ、というのは難しいですけど…」
頭の中では様々な花が浮かんでいた。
目を奪われるような大輪の花も、ひっそりと咲く山野の花にも、それぞれの良さがあって特別にどれが好きというのは難しい。けれど花木の香りには人を引きつける特別な力があると思う。
今もこうして見えないその姿を探しているように。
「…香りのある花は特に好きかもしれません」
それを聞いた孟徳の笑みが深くなった。
「梅に沈丁花、梔子、木蓮、蝋梅に茉莉花もかな」
男の人は花になど興味を持たないものだと思っていた梅里には、孟徳の口からよどみなく花の名前が出てくるのが意外で、でも同時に、共有する認識が嬉しくもある。
歩いているうちに芳香がはっきりとしてきた。きっとこの先に花があるのだろう。
「はい。それに今の季節なら―――」
孟徳が言葉の先を引き取った。
「桂花だよね」
頃合いを見計らったかのような絶妙の間で、視界が開けた。
白い小花を無数につけた桂花の木が二人を出迎え、甘い香りに包まれる。その奥には屋根が大きく反った南風の造りのあずま屋が見えていた。
「いい匂いですね」
はずむ声と共に少女が孟徳を見て顔いっぱいに笑みを浮かべた。長い睫毛に縁どられた瞳がきらきら輝いて一際大きく見える。
初めて見せたその明るい笑顔に孟徳も笑み返す。
「本当だね」
大きな瞳が感嘆したように見開かれている。少しの間そこから眺めていたが、やがて蜜にひかれる蝶のように少女は自然に桂花の木へ近づいて行く。幾度か離れかけた手をその度に強く握って放さなかった孟徳も、今度はそれを許した。
小花の塊に顔を近づけて、目を閉じたまま香りを楽しんでいるその口元が、幸せそうにほころんでいる。
孟徳はその横顔を眺め、思いの外うまく事が運んだことに満足していた。
この子が笑ったらどんなに可愛いだろうと昨日からずっとその表情を思い描き、どうしたら憂いなく笑ってくれるだろうかと考えていた。花を見せることを思いついたのは、城を見回っているときに見つけた桂花が咲き始めていたことを記憶していたからだ。
花を嫌う女の子はまずいない。香りのある花が好きだと聞いたときは、幸先の良さに思わず頬を緩めた。
滝のところで怖がったのは予想外でかわいそうなことをしたが、思わぬ成り行きから少女の微笑みという副産物も得て上々の気分だった。
孟徳は細身の枝を選んで手折ると、少女をそのままに、あずま屋の方へ足を向けた。炉で火の番をしていた侍女を下がらせ、自ら茶の支度に取り掛かる。
小さな炉に掛けられていた湯の中に砕いた茶葉を入れ、葉が開くのを待つ。
手折った桂花の枝から葉を落としていると、少女が孟徳のもとに戻ってきた。
「…お茶、ですか?」
「そうだよ。玄徳のところで飲んでた?」
梅里は首を振った。
「そう」
中原では茶はまだ贅沢な嗜好品で、庶民にはまず手に入らないし、茶が何かを知らないものもいるだろう。なのに少女は卓子に残っている茶葉を見て、すぐに気がついた。
茶の産地の巴蜀出身ならさして不思議もないが、少女の発音は向こうのものではない。学がある時点でそれなりに裕福な環境で育ったとわかるし、身につけている耳飾りの石も、ひどく高価というわけでないにしても、庶民が気軽に身につけられるようなものでないことは孟徳にもわかっている。
「本当に君はどこの誰なんだろうね」
好奇心に駆られて口にしたものの、表情の曇る少女を見て、孟徳は手にしていた桂花の枝を目の前で軽く揺らした。
「ちょっとじっとしててね」
花に意識が移ったその目が、白い花の行く先を追う。
孟徳は髪飾りを差すように少女の耳に細い枝を掛けた。
「うん、かわいい」
「……ありがとうございます」
気恥ずかしさと嬉しさが入り交じった表情で、細い指が白い花を撫でるようにかすめる。
「ああ、いい頃合だね。さ、そこに座って」
茶葉の開きを確認して、少女を腰掛けさせる。
茶を注いだ碗をその前に置いて、孟徳も同じように向かいに腰をおろした。
「どうぞ」
「いただきます」
少女は礼儀正しく頭を下げてから碗を両手に包んだ。
茶の香りを確かめてから、ふうふうと息を吹きかけている。
「熱いものは苦手?」
「あ、はい。…子供っぽいですか?」
確かに子供みたいだと思ったが、気にしているのか拗ねたような口調に、それは言わないことにした。
「…思慮深いところを見せてくれたかと思えば、違う面を見せてくれる」
おとなしい大人びた感じの子なのかと思ったが、案外そうでもない。これからももっといろいろな表情が見てみたい。
「君は面白いね」
じっと見ていると、碗を両手に持ったまま少女がそのままの姿勢で訊いてくる。
「あの…面白いからですか? そんなにご覧になるのは…」
「そうじゃなくて、かわいくて目が離せない」
正直に答えただけだが、頬を染めた少女はまるで碗の中に逃げ込むようにそれを傾けた。
「熱っ!」
「大丈夫!?」
小さく上がった悲鳴に、孟徳はすかさず少女から碗を取り上げた。飛び散った茶が卓子を濡らす。
詫びる間もなく、濡れた口元を孟徳が懐から取り出した布で拭われた。驚きに思考も体も固まっていたのは数瞬で、梅里は我に返ると飛び退るように立ち上がった。
「だ、大丈夫です…! それより丞相の方こそ…!」
取り上げたときに散った飛沫に孟徳の指も濡れていた。
「俺は平気だよ。君の方こそ大丈夫? 火傷してない?」
「あ、あの…本当に大丈夫です…ちょっとびっくりしてしまって…」
実の所、すごく熱かったというわけでもない。ただ赤面するほどの恥ずかしさに刺激が重なって、つい声高になってしまった。落ち着いて振る舞いたいのに、孟徳にじっと見られているとそんな些細なことさえ難しくなってくる。こんな調子では子供だと思われても仕方がない。
「すみませんでした…。せっかく淹れていただいたのに…」
「お茶なんていつでも淹れてあげるよ。それよりも何か違ってないかな?」
「違う?」
高価なお茶を無駄にしてしまったことより、孟徳にとっては別のことが気にかかるらしい。
ん? と顔を覗き込まれたことで、梅里ははたと気付いた。そして消え入りそうな声で一言。
「……ごめんなさい…」
「良く出来ました」
孟徳はにっこり笑った。

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